私の手記- memoir -です


by masatokunkeio

好評連載エッセイ *ヤナ先* No.1

※このエッセイはかつて別の雑誌への連載として準備したもの。寄稿前に小編集人に大変好評だったので敢えて未修正版を同編集人の許可あり転載する。無断転載は固くお断りする。

第1回 くたばれ今菌(イマキン)
 誰でも生涯忘れられないイヤナ先生(ヤナ先)がいる。そのヤナ先に言われたこと、やられたことを大人になってもしっかり覚えている。もっともヤナ先自身はすっかり児童の事なんて忘れているだろう。従ってここに私の小学校時代に体験した事実をそのまま記してもなにも問題はないと確信する次第である。
 あれは小4の頃だった。毎日が楽しかった。友達とたくさん遊んだ。授業も楽しかった。もとらない表現力しかない私の話に心から驚いたり喜んだりしてくれた担任の先生。「毎日の生活ノート」と題する学活用ノート。なぜが今でも小4だけ残っている。私の小生意気な日記に対して丁寧にコメントを書いてくださった担任の先生の優しい字がそこにあるからだ。当時はそんな毎日だった。
 いつも楽しい放課後。先生は教室に残ってテストの採点をしている。私を含めた仲良し3人組は教室内で紙飛行機を作っていた。なにか道具が必要になると自分たちの道具箱から道具を取り出しそれを使うのが当たり前だが、先生の引き出しを開けて道具を借りる。別に何も言われなかったがきちんと「先生、XXをお借りします」「先生XXをお返しします。有り難うございました。」と毎回言っていた。(時には省略もしていたが)ある意味、家族のようでもあった。先生の道具は大人用。何かと便利だし使いやすいからだ。
 紙飛行機が出来て、飛ばしまくっていた。もちろん先生の机の方へも飛んで行く。全くお構いなしだ。そのうち一人の紙飛行機が窓の隙間から下の階へ落ちていった。
「うわぁー、やばー」
「おい、どうするんやー」
3人の小さい頭を付き合わせガヤガヤ話し合っていると、優しい担任の先生が窓の下を覗きながら言った。
「下の教室の横に引っかかっているから、取りに行っていらっしゃい。」
 下の階。行きたくなかった。皆何故か知っていた。その時分、下の教室の担任をしていたのが今菌だったからだ。
「おい、早くいけよ」
「って、おまえから行けよ」
お互いに押し合いながら階段を下り、躊躇いながらその教室のドアをノックした。廊下の窓越しから教室の中を覗くと、放課後なのになぜか児童がみな席にについている。なにかをやらされているらしい。
ヤナ雰囲気、そう思った。すると一緒にいた一人がいきなり教室のドアを開いた。私は大いに躊躇った。
「誰が勝手にドアを開けて良いと言いましたか?」
教室の中から嫌みな問いが聞こえてきた。そう、まさしく今菌の声だ。その時初めて聞いた。
「あのー、飛行機が落ちたんで取りに来ました」
そう言ったのは特に今菌に抵抗感を抱かない友人I。実際教室のドアもそのIが開いたのだ。
「あなた達、今、この教室で皆が何をしているか分かりませんか?」
半開きのドアの前で躊躇っている私たちに向かって今菌は言った。妙に丁寧な口調だが、臭いほどえぐさがある。
 大体今は放課後だ。そっちのクラスのことなんか知ったことではない。いや知りたくもない。まあ、あんたの指導力がない殺伐とした雰囲気での授業故にクラス全員を残らせてありがた迷惑な補習でもさせていたのだろう。
「もういいよ。帰ろうよ」
私が小声で言った。すると
「飛行機を取りに来ただけですが。」と友人Iがまた言った。その後何とも言えない冷ややかな沈黙があった。なんで放課後、紙飛行機を取りに来ただけでここまで気まずい思いをしなくてはならないのか皆目見当が付かない。

「さっさと中に入って、静かに取りなさい」と今菌。
あのー、あんたの教室の中って結構ザワザワしてますけど、、と思ったがそんなことは言えない。恐る恐る飛行機を見つけ、さっさと教室を出て行こうとすると後から声がした。
「おじゃましました。有り難うございました、は?」
うわー、最悪。全く上から目線。ルソーの『エミール』の正反対バージョンだ。自主性を完全排除し、あくまで軍隊式。それが今菌式だ。強制ご挨拶の後「あなたは一体どこクラスの子?何年生?担任の先生、礼儀をきちんと教えていらっしゃるのかしらねぇ」と一方的に、そしてご丁寧な自己紹介までさせられた。しかも私だけ。この時、既に目をつけられていたのだ。
 自分のクラスへ戻ると、ガランとした教室に担任の先生がニコニコして待っていた。
「飛行機、ありましたか?」
「ハイ。」
「どうしたの?K君。元気ないじゃない。なにかあったの?」
先生は感づいた。しかし私は誤魔化して
「先生、さようなら」
とだけ言った。
「はい、さようなら。明日は日直だから早く学校へいらっしゃいよ」
先生は廊下に出て私たちを見送っていた。
今思うと、私の全学校生活でのTOP3の先生とWORST1の先生が同居した、まさに小4時の瞬間だった。その日はなんとなく気分が悪かった。それから毎日毎日、実に小学4年生が終わる日まで
「どうか、あの先生のクラスにだけはなりませんように」と一心に祈った。けなげなものだ。いじめっ子も沢山いたが、私の一番の不安要因はまさにヤナ先No1の今菌であったのだ。
 そして、今でも忘れることが出来ない日がやってきた。五年生に進級した日、クラス担任発表で皆の前の朝礼台に悠々と上がったのが、今菌だった。
 私の四半世紀に満たない人生で幾度か「これは、夢だ。絶対に夢だ。朝になったら全て綺麗になくなっているんだ。」という事件があった。
 その日はまさにそうであった。まさに夢であって欲しかった日、ナンバーワンである。ヤナ先No1が担任に、しかも2年間も。。時が止まり、自分が立っている小学校のグラウンドが歪んだ。大好きだった校長先生、小4時の担任の先生は揃って転勤。これから始まろうとしていた煉獄に対する心の準備も出来ないまま、ドンヨリとした気分で5年生の教室に入った。いつも新学年、新学期はどことなく新鮮な感じで嬉しかったが今回ばかりは突き落とされた感じだった。その教室は既に今菌のお部屋になっていた。全く落ち着かない。嫌で仕方がなかった。隣のクラスの担任もさして人気の良い先生ではなかったが、よほど変わって欲しかったことか。今菌がなにかの都合で休みだったときどれほど幸せだったか。読者諸氏は想像できるだろう。
 それから毎日、イマキンニズムを忠実に守り、小学生相手なのに無駄に厚化粧し口紅を真っ赤に塗ったくった今菌の授業を受け、毎放課後の意味不明なお説教を聞きつづけた。クラスの8割が「今菌(イマキン)」というあだ名をつけていたことをつゆ知らず、私は人気があり教育力があると勝手に悦に入っていた憐れな教師。まさに現代の「でもしか先生」「サラリーマン先生」を自でいっているような存在だった。
 ある日のこと。クラスのみんなで話し合い、今菌には内緒で今菌の誕生日会をすることになった。けなげな私もなぜか喜んでいた。今になって思うと実に不思議なのだが、その日、今菌を載せた教師用の事務椅子を押して長い廊下を通り教室まで押し続けるという大役を買って出たのだ。嫌われていることが分かっていた当時、なんとかして好かれようと思っていたのだろう。
 階段を上ってきた今菌のファンデーションの臭いに咽せながらも、顔に似合わず遠慮していた今菌を椅子に座らせ、教室まで押した。重いし、コントロールも難しかったことを覚えている。漸く教室までたどり着き、今菌が教室のドアを開けた。仕掛け通りくす玉が開き、紙吹雪。全員が「先生、お誕生日おめでとうございます」と声を合わせていった。全くけなげな学級だ。どんなヤナ先にでも児童は懐く。今ではちょっと珍しいかもしれないが、その当時はまだそうであった。
 今菌クラスを二年間耐える中、いろんなハプニングがあった。一貫して言えることはどれもすべて不幸事であったことだ。不幸事といっても誰かのお葬式という意味ではない。今菌が作った不幸事ということだ。人生という名の学校において幸福より不幸の方が良い教師であると言ったのはロマンロランであるが、その意味では私のその暗黒の2年間こそ良い教師だったのだろうか。実際、現在多くの人たちをご指導する中、アンチイマキンニズムとして立派に役立つほど強力な2年間であった。多くの不登校児を立ち直らせ、幾多のひきこもり症の改善を成功させたのは、明治期より教育に携わった我が家の家訓がその大なる所ではあるが、「決してしてはいけない教育」としてイマキンニズムがしっかり私の中に存在していることは全く否定できない。
 小6の終わり頃、私は軽率な行動をとり、下級生の女子がそれによって傷つき不登校になった。もっともその小事を大事にした張本人が今菌であったことが言うまでもない。その原因が私一人であることが別の下級生からのチクリで判明した後、毎日のように今菌から長々とお説教、そして事情徴収をとられ、事実確認をさせられた。教師と言うより検察官の尋問のようだった。そんな指導、いや尋問補導はすべきではない。大学で教育者を目指す学生なら誰でも知っていることだろう。よく教員採用試験に受かったものだ。全く、教育実習で児童の票でも取らないかぎりこのような悪質な教師と教育は根絶しないだろう。『一房の葡萄』という教育書があるが、そこに出てくる教師と全く正反対を今菌は堂々とやってのけた。全く完全無欠なほど誤っている。『子供が育つ魔法の言葉』という名育児書があるが、一体どうすれば今菌はそれらを全く知らずし読まずして、公立小学校の教員になったのか不思議で仕方がない。彼女の教育はまさに社会悪と言うより犯罪と言っても過言ではない。幸い、その時に今菌からなにを叩きつけられたのかはほとんど忘れた。ただ一つ、ずっと泣きながら、下級生の女子にしたこと、今菌が悪いと認定した(決して私が自覚したわけではない)ことを今菌の眼前で何度も何度もされられたことだけ明確に覚えている。今菌は運が良かった。そういう嫌がらせをした相手が私であったから。もし他の子だったら先生嫌悪で確実に不登校になっていただろう。彼女は児童の悪い習慣を処罰することに非常に長けていた。決して教育ではない。福沢諭吉の言う開発でもない。単なる処罰だ。学校において担任の先生が検察官、校長先生が裁判長、児童が被告人。このような図式が成立するなら、そのような学校生活を送った子が作る社会は間違いなく崩壊するだろう。処罰後には嫌な気持ちだけが残り、決して修正されない。場合によってはそれがトラウマにすらなる。悪化することさえある。その当時、今菌は寵愛する児童達とよく自分が妊んだ赤ちゃんの名前について話していた。結局私をさんざんにいじめてくれたヤツと同じ名前にしたようだ。けったクソ悪い。自分のセックス不足と妊娠による苛立ちを私にひたすらぶつけていたに他ならない。まったく煮ても焼いても食えない教師だ。最も、私以外にも被害者はいた。それはおおむね私の友人だった。私のとばっちりを受けていたのだろうか。済まないことをした。
 今菌が好んだのは「教師にへつらう親」であった。その証拠に、四六時中学校へ出入りするご父兄のお子様には気持ち悪いくらいやさしかった。それで今菌は授業参観時は異常なほどよい教師を演じていたのだろう。厚化粧の意味もこれで分かる。
 ある時、私の父がPTAの時こんなことを言った。
「大体、児童の絵に金や銀の紙をつけて賞をつけるなんてとんでもない誤りだ。一人ずつそれぞれの見方で最高の表現をしているのに、教師の狭い了見で勝手に判断しいい加減な賞をつけて自信をなくさせたり、くだらない塗り絵ごときに自信を持たせたりさせるとは。」その時、側にいた母は「おやおや、本音をそのまま言っちゃって。うちの子にとばっちりが来なければいいけど」と思ったようだ。会場内、水を打ったようになったそうだ。ただ一人手を叩いて賛同した人がPTA会長だった。その後父とその会長はよく交流をしていたようだが、母の案の定、私は今菌からの丁重なまでの嫌がらせを受けた。その時となってはもう慣れていたが。
 今菌。あんたはすっかり忘れているだろうが、私はしっかり覚えている。
読者諸氏に告げる。教師たるは自分が不勉強でなにもしらないことを知るべし。不勉強故に知ったかぶりで取った言動が学生達に如何に悪影響を与え、時に彼らの人生を大きく揺り動かしていることを。まず、可能な限りの育児書、教育書を読みなさい。教壇に立つ君。決して第二の今菌にだけはなるな。日本を滅ぼしてはいけない。第二の今菌にさえならなければ日本は立ち直れる。
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by masatonet | 2010-07-30 23:52 | ヒトリゴト日記