私の手記- memoir -です


by masatokunkeio

世の中の普遍化に疑問を感じる

先日、時代外れのスポーツカーに試乗して以来、いろいろ考えることが増えたように思う。

特に環境問題が表面化してきたころから、エコが叫ばれるようになり、環境保全の元で省エネ名目の普遍化が圧倒的に生活へ浸透したように感じる。

教育では「放任」を「個性化」とはき違えた無知な親が増えたことは愚かなことだが、工業製品は一斉に個性的なものから普遍的なもの(省エネ、効率化重視)へ舵を取り始めたのだ。

たしかに60年代から70年代、そして80年代、バブルが始まる直前まで、やり過ぎたことは否定しない。エネルギーも使いまくり、環境も汚しまくり一辺倒で、まさに「調子に乗りすぎた」ではすまされないレベルの浪費を社会全体が良しとしていた。ガイアが「時速40キロ制限でお願いします。ならば、皆が満足してゆったりと暮らせます」と言っているのに、我々工業先進国は「時速500キロで飛ばしあげろ!いやもっと出せるかも知れんぞ!!」と滅茶苦茶をした訳である。そのあまりの暴走にガイアの警備隊も我々を停止させることは出来なく、ある意味「自滅してもらうしか手がない」と放任されてしまったのだ。そんな日本の生活スタイルの変化に追い打ちをかけたのは、やはり欧米の「反もったいない発想」とも言うべき使い捨て文化だ。

そして行き着いた所、いやまだ行き着いていないのだろう。格差がますます広がり、持つ人と持たない人の間、いや持つことに意味を感じない人との間の意識の差が果てしなく広がっていく社会がすぐ直前まできている。

高級とは「静けさ」だと筆者は思っている。これは独断なので反論もあるだろうが、あくまでも私個人の見解だと、高級品と普及品の違いは「静けさ」と「その演出」に他ならない。

高級ホテルのロイヤルスイート。極めて静かである。そしてVIPにはレストランも貸し切りになる。そこには超高額な「静かさ」が提供される。当然だが、ただ単に「シーン」と静まりかえっているのではない。心地よい「静かさ」が人工的に演出されるわけだ。

高級車。価格の差はまさに「静かさ」以外にないと言っても良い。車外の雑音の「処理」の仕方がちがうのだ。当然ただ密室にして音を閉め出しているのではない。

高速道路を時速120キロで走行した場合、メルセデスベンツでは通常の話し声で後部座席に乗った人と話が出来る。プリウスではそうはいかない(笑)。

私の趣味であるオーディオだと、価格差が音質差となることは必死だ。そして音質差は「静かさの演出法」の差という訳だ。
オーディオとはほど遠い世界に生きている近所の老婦人達に私のオーディオシステムで音楽を聴いてもらったことがある。ある80歳に近い婦人がポツリと
「部屋や窓が揺れるくらいの大きな音を聴いているにもかかわらず、音自体がとても静かですねぇ」と呟いた。私は思わず嬉しくなり「いや、ひと言で核心を突かれてしまいました」と返事したことを覚えている。

お金を掛けてゆくと、結局は「静けさの演出」へ行き着く。

車だと、マイバッハとフェラーリを比較するとその「演出」がまるで違うことは火を見るよりも明らかだろう。
オーディオだと、TADフルシステムとゴールドムンドフルシステムを比較しても明らかなのは「音と音の間の無音の演出差」と言いきっても良い。音楽を聴いているのに実は「無音時から来る感動」を期待しているわけだから実に愉快だ。

ピアノを弾いていると、アタックの後にどのくらい「溜め」を持ってきて空間に音を広げていくかが味となる故に、休符は単なるお休みでは無く、「無音の演出」を必死にしているわけだ。

地元のセミプロオーケストラとアムステルダムコンセルトヘボウが同じ曲を同じホールで近い時期に演奏したことがあり、とても有意義な経験が出来た。

地元オーケストラだと、なにかと騒がしい感が終始ある。なにか落ち着かない。
しかしコンセルトヘボウは無から湧き出て、そして無に帰る演奏だ。音が消えていく時に感動で涙がドッと溢れる。どれだけFFで終わっても音が無音に向かうのが明らかに解る。それが超プロと言われる由縁だなと改めて実感できた。


さて、その普遍化の問題だが、最近になり工業製品がことごとく個性的で無くなってきている。
先日、新型のラウンドクルーザープラドを試乗して、改めてそれを痛感した。
あれは四駆車ではない。ただ単に車高が高い高級セダンだ。これならセダンを買えば良いではないかと言いたくなってくる。ショールームにはレクサス車のカタログが派手に置かれていた。その中から四駆タイプ(以前のハリヤー)を探すのに苦労した。カタログのデザインもさることながら、車のデザインがどの価格帯でも「ほぼ同じ」だから。

なんでも省エネの影響か、エコの影響かはわからないが、四駆車のスピードメーターにも「Eco走行」ランプが点灯する。う〜む、Ecoを気にするのであれば、初めから四駆車など買ったり乗り回すこと自体笑止なのではと思うのであるが。

ゴツゴツした乗り心地、そして四駆車らしいパワフルな走り、これこそ四駆車だ!という感は皆無で、言い過ぎかも知れないが、マークXの車高を高くして4WDにしたという感じ。車内の作りや静けさ、アクセルワークのスムーズさ、どれを取っても「いわゆる四駆車」では全くなく、「車高が高いセダン」に他ならない。

へえ〜最近トヨタもこんなデザインの車を出したんだね、、と思ってよく見たらベンツだった。
お〜お、流石ベンツだな、堂々としたもんだよ、、と思ってよく見たらレクサスだった。
なんて、別に僕の目がおかしくなったわけでは無い。


100%個性が失われた訳である。時代がそれを求めている。やり過ぎた過去の埋め合わせは当然しなければならないが、我々の個性も「害」として排除する必要があるのか。

デジタル時代の最高にして最大の病巣
「個性を普遍化し、エコやらの仮面を被り、100人いれば100人とも同じ顔にすることに疑問を生じさせない利便性で個性溢れる思考回路を完全に麻痺にさせる」

これに今後我々はどのように対応して行く必要があるのだろうか。
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by masatonet | 2012-11-12 22:11 | ヒトリゴト日記