島国の女、十字架を負う

小保方晴子さんの事件。

ユニットリーダーの、、、
小保方氏、納得しかねぬ、、、
ユニットリーダーの
ユニットリーダーの、、、
小保方氏、入院し、、、、、

もはや滅茶苦茶、はちゃめちゃである。

目下2014年4月時点、未だにその真偽は調査中とのことであるが、STAP細胞がどうだろうが、コピーペーストがどうだろうが、iPS細胞に継ぐ大発見で、その最大の功労者、小保方さんと筆者が同じ世代で彼女が筆者の永遠のライバルである早稲田出身であるとか云々はこの際どうでもいい。
完全理学系の世界だろうが何だろうが、私は文系人間なので、科学的数学的、化学生物学的考察でなく、 それはできない故に、お家芸である、哲学的社会学的そして宗教学的教育学的にこの事件を備忘することをただ許されたい。またこの観点からの考えが今最も必要なのではないか、その全くの欠如がこの問題をここまで大きくしてしまったのではないかとすら思えてならない。

またおよそ天文学的確率だが、ご本人小保方晴子さんがこの文章をご覧になっても、エールとして昇華されるべく、入院中、その後のお心の支えにしていただければと思う。ブログというのは実際どうやって検索されるのかハッキリしない。こんなご時世ご本人が自分の名前を調べて、しかもこのブログに行き着くとはほぼ全く想像できないが、ゆえに気楽なわけだが、匿名性を使った誹謗は私の全く趣味ではない。小保方さん、ご関係者がご覧になる可能性はタンスにしまった宝くじを当選日の翌日に見るよりも高いかもしれない。勝手にそう思い続け筆を執る。

理学系世界で精神を拘束された人間には、何よりも宗教が必要だろう。アインシュタインの言を借りるまでもなく、それは間違いない。日本で偉大な科学者が少ないのも、戦後、オリンピック優賞が少ないのも、信心との関係があるのではないか、と誹謗覚悟で言いたくなるほど、この国は宗教迷走状態だ。科学には宗教が不可欠ではないのだろうか。どうして両者を引き離すのだろうか。部屋の掃除をするのは、「綺麗になった部屋を見渡して気持ち良く感動し神に感謝するためにする」のではないのか。どうして掃除は宿題を忘れた人の罰なのだ。ここに悲劇がある。そのような教育をし、受けてきた人間の何人が、高僧になるためには便所の掃除が大切だということを理解できるのだろうか。

さて、前置きが長すぎた。本題に入る。
今、人はいったい小保方さん(以下敬称略しOとする)に何を求めたのか。
世間がOにどうして欲しいと要求する前に、世はOに何をして欲しいのか。

謝罪か
辞任か
世は「良い子になる事」をOに期待するのか。

「ながらうべきか死ぬべきか、それが疑問だ。」
ハムレットは真摯にそう言っているが、まさにそうである。

今この文章は、プライベートリスニングルームで、嘗て筆者が全国をチャリティーしつつ歌ったマタイ受難曲、思い入れがきわめて強いバッハのこの名曲を、それをコルボが振ったアルバムを聴きながら綴っているわけであるが、だからと言って、今回のこのOの事件をキリスト教ドラマ活劇として安っぽく陳腐化するほど私も子供ではない。

しかし、考えれば考えるほど、これはやり過ぎだ。Oの失態を大きく取り上げすぎた報道は、自らの醜態をOへの弾劾でさらけ出し続けているのはただ呆れてしまう。踊るだけ踊っておいて、それをメシの種にし、その後、どうしてあんな伴奏をしたのかと、その踊りで一稼ぎし終わってバンドを責め立て、またそれをメシの種にする。全く愚の骨頂である。踊る前に大人らしい考察があるのではないのか。報道関係の謝罪なき無責任さは何時も呆れるばかりか、ここで21世紀においてマスメディアの時代は完全に終焉したとも言い切れる。
またしかも、Oが何度も何度もそんなマスコミに犯罪者のごとく取り上げられ、また涙し、身体を壊し入院中ですら自身の情報を気にし続け、Oのために弾劾される人々に対して深い自責の念を述べ続ける、そんなOに対して、これは出来の悪い教師が「その教師自身が作った劣等生」を生徒たちと一緒に笑いものにする「教室」の姿と全く同じと気がついた。人に備わるやさしさとは、人のことを自分のこととして知ることとは、かの日野原重明医師の名言だが、世の人は、もはや人でなく、心もなく、ただ驚喜したり、憤慨したりする狂人の集まりになりつつある。

これは、かつて『フランダースの犬』のレビューでも述べたが、私に言わせると主人公ネロは「十字架」に架けられたのだ。そして死んでいった。
つまり、Oは今まさに、極東の島国で、敗戦後69年無宗教状態である極めて特異な先進国家で、ひとり「十字架」を負わされた。しかも大小さまざまな「十字架」を負い続けることを余儀なくされ、極悪人バラバは許され、自分は十字架上で死を迎えるイエスよりも、はるかに科学的に高次な屈辱を「死ぬことを許されない十字架」とともに負わされ続けるO。これは一体何なのだろうか。


では、この男をどうするのか。
許してやるのか、それとも処刑するのか。

(合唱)
十字架につけろ
十字架につけろ
十字架につけろ


この部分、合唱で歌うと、私はどうしても気持ちが高揚し過ぎてしまい、その後、自身の愚鈍な残虐性をまた眠らせようと必死になっている。全くイエスの言うとおり「神よ、彼らをお許しください。彼らは自分がなにをしているかが分からないでいるのです」であって、人間の潜在的な残虐性は合唱中ですら芽生えるほどだ。


人は子供の頃から、色々な経験をして育ってゆく。よい経験、悪い経験、それは内的原因で起こったり外的な起因であったりするわけだが、むしろ悪い経験をすることの方が多いのではないか。ロマンロランの、人生は学校である、そこでは良い経験より悪い経験の方が優れた教師である、という金句があるが、人生とは、どうもそうらしい。私もO同様まだ四半世紀も生きていないので、一切全く藍いわけであるわけで、偉大な恩師たちの出藍の、、と成れればと妄想中である。つまり人は誰一人も完全でなく、完璧でなく、それを他人に大きく求めると忽ち過ちになる。事の次第では「十字架」を負わせることになるのだ。

今だからの笑い話だが、高校2年生の時、私は生まれて初めて大々的にカンニングをやり続けた。もっともカンニング自体は通っていた学習塾では茶飯事だったが、学校でここまで大々的にしたのは初めてだった。教科は物理という分野。教科書付属の問題集からそっくりそのままテストに出ているわけで、それなら問題集の解答集を持ち込めば間違いなく100点が採れるという極めて合理的な結論を出した当時の私は堂々と、しかも何度もそれを続けた。

当然、問題が発生した。しかもちょっとこじれた訳である。
私がカンニングをしていることを見つけたのが、何かにつけて私を目の敵にしていた輩とその友。ミッションスクールだったので、当然同級生には牧師の子息がきわめて多くおり、その友が、学内外で有名な某牧師の子。参考までに述べると、ミッションスクールで牧師の子息の権力は実に凄まじいものがある。
たちまち学年全体の知れ渡ることとなり、私は、いわゆる「つるされた」訳である。剣道部キャプテンだった私に対して暴力は極力避けられていたのがせめてもの救いだった。いずれにせよ悪いのは全く私自身であって、他の誰でもない。私を目の敵にしていた輩も、その理由も元を正せば私が全く悪い。

ここで少し余談を赦されたい。
実はこの二人はごく最近まで私の夢の歴代最高の悪役としてレギュラー出演していた。彼らが夢に登場すると極めて悪態を寝言で吐くようで、私はそれを聞かれた婚約者に逃げられた経験すらある。

母に相談すると、母は敬虔な宗教家故に、それこそ今までの未熟ではあるが私自身の宗教観で克服すべきだと言われ、それならばと、「汝の敵」のために祈りはじめたわけである。

「千里の堤も蟻の穴から」

とはよく言ったもので、毎晩毎晩、どこに行っても、スペインであっても、デンマークでも、イタリアでも、フランスでも、アメリカでも、ドイツでも、眠る前に彼らのために幸あれと祈った。

最初はいい加減だったし、また腹も立った。しかし兎に角祈りを続けた。

悪役レギュラー出演の契約は実に高校卒業後幾十年目にして満了し、素晴らしいフィナーレが行われ、二度と見ることが無くなっただけでない。もやが晴れ、解き放たれた感じが続いている。
私も弱い人間であって、ちょっとでも油断すると、サタンという名のマネージャーが彼ら黄金レギュラーメンバーにコンタクトを取り始める。祈りに終わりはないという訳である。

カンニングの話に戻すと、私はそれまでのイメージを完全に破壊されてしまった。友は一斉に離れていった。異性云々以前の問題だ。ただしその理科を教えていた先生は、懇談会の時、私を徹底的に褒め称えと後で聞いた。極めて決まりが悪かった。なぜ先生が私を褒めたのか、無論私の愚行一切を知らないことは明白だが、それにしても、両親の談だと、本当に大変なお気に入りだったようだ。本来なら私もその懇談会に居るはずなのだが、当然嘘は次の嘘を作っていっている最中だったわけだ。


さて、Oは「ならがえて」いる。今のOの存在だけで、私は自分の恥部を鮮明に思いだし、また再び今夜も祈らないといけない。

人は、世は、Oの周りの人は、誰が完全無欠なのか。どうしてOだけを「十字架」に付け、自分たちは眺めているのだ。

今私がしてほしいこと、それは小保方晴子さんの謝罪や撤回ではない。


関係者や、彼女をつるした日米他マスコミ報道者、一人ずつが、Oという島国の女を十字架からおろし、自分たちがOに負わした「十字架」を自分の「十字架」として、「各々の恥部という名の十字架」として、それを負い、世の前に進み出ることだ。

誰一人、小保方晴子さんを責めることはできない。

もし未だに責めていたなら、責めたいならば、その人は「完全無欠」に向かってゆく、ドン・キホーテの亡霊である。

彼女を責める、その憤りの先には、残忍さ溢れる孤独死だけが貴方を待っている。
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by masatonet | 2014-04-17 22:13 | ヒトリゴト日記