私の手記- memoir -です


by masatokunkeio

人を敬う事なしに、貧困から逃れる事は出来ない。

ゆとり世代
貧困

因果関係がないとは言えそうもない。
2016年現在で、2、30代がおよそゆとり世代となるし、恐ろしいことにその世代が子育て、さもすると小学生くらいの子供を育てている。ゆとり世代親達は実に自信満々である。迷惑千万なのは他でもなく子供達だ。

ゆとり世代の特徴は、全てがフラットだという事。つまり敬も譲もなく、全てが自分達と「同一レベルでそれを良しとする」事である。プア充などもまさにこの世代の醍醐味である。

「あのねぇ、山本さん」と気軽に呼びかけるのは大学生の絢香。山本さんとは学部長の山本誠一郎。山本が授業態度の事等で注意しようものなら「はぁ?なに勝手にキレとん?」とキョトンとする絢香。

上記のような、まさに「教育の地獄化」がもはや日常化している今日この頃である。

ゆとり世代
貧困

繋がっただろうか?
賢明な読者諸氏はすでに大きくうなずいただろう。

貧困の原因を一言で言うのは不可能だが、多くは「教育環境」に潜在していると考える。より良い相談相手が不足した状態で貧困から抜け出る事ができない事は巷の溢れる該当の書籍を読まずとも分かる。「教育環境」の不平等は多くの場合世襲されよう。逆もまた然りであり、よい「教育環境」で社会的な貧困とは程遠い生活をしている人達は、一代でというよりも、そのよりよい「教育環境」は世襲された場合が多い事実がある。周知の事実は、豊かな暮らしの子供は、それが親や先祖に全て依存されているわけであって、よほど稀なケースを除けば、子供の貧困は親の貧困である。


では、重ねて考えるが、どうしてそこまで貧困が広がるのか。ここまで物質的に豊かで、また肉体的に安楽な環境であるにもかかわらず、富裕と貧困の決定的なまでの二極化が進むのだろうか。

経済評論家の長谷川慶太郎氏の言葉を借りると「金と情報はあるところにしかない」となる。そして、その「あるところ」とはまさに「上質な教育環境」のことなのだ。

するとたちどころに勘違いされそうだが、教育環境は自ら手に入れる事ができるわけで、決して現状の教育環境から逃避できないなどとは毛頭考えていない。つまり、自分から積極的によい環境を見つけるべく動けばよいのである。しかしそれができない、それが出来れば話が早いが、などと貧困研究従事者から非難が聞こえてきそうだ。

ここで立ち止まって考えてもらいたい。

なぜ、それが出来ないのか、つまり自分から積極的によりよい教育環境を見つけようとしないのか
という問題について考えられたい。

筆者は「敬と譲」の完全な欠如がその一因ではないかと思われてならない。

敬うことと謙(へりくだ)ること。一昔前の日本人なら当然それを持ち得た。しかし、全く死語となってしまった。

人を敬うことが出来ずに、どうやって教育を受けるのだろうか。
謙ることなしに、どうやって自己研鑽出来るのだろうか。

「敬と譲」が失われた国家は衰退の一途を行く。日本人の根底にあったそれらの美徳は、二宮尊徳や上杉鷹山らによって世界的に知られることとなったが、不幸にして第二次大戦後アメリカにして徹底的に打ち壊されて現在のプア充へと繋がってゆく。


自分達は「先生ら」と対等で、往々にして「先生ら」よりもよく知っている、「先生ら」はただ古いだけで、、、のような教育環境の捉え方がまかり通っている。そうなると、残された道はただ一つ。自分のレベル以下の人間関係を築き、その殻の中に閉じこもり、その中で税金を貪り、しかも絶対的に貧困におかれた状況を全く満足し続けるために「劣等を充足感に置き換える生活」を送ることを余儀なくされる。

ゆとり世代
貧困

「敬と譲」はこうして完全に忘れ去られた。


井の中の蛙大海を知らず。初潮を迎えた保育園児が保育園児を育てる時代。

もし日本人がその偉大な精神を取り戻すなら、まず「敬と譲」を取り戻すべきだ。
待機児童うんぬんでも保育士うんぬんでも全く解決にならない。
一体なにをやっているのだろうか。
全く迷走したいとしか思えない。

自分がお山の大将ではなく、まず目の前の人を敬うこと。
自分は何も知らないことを知ってへりくだり(決して劣等感を抱けとは微塵も言っていない)、1から学びなおす事。

できる事は、それぐらいだ。

ゆとり世代
貧困

強固に繋がりつつあるその2つの言葉は、今後日本の精神的前線となるだろう。
[PR]
by masatonet | 2016-07-20 20:15 | ヒトリゴト日記