カテゴリ:ヒトリゴト日記( 96 )

試乗を2回に分けて、日中と夜間にやってみた。
走り。もう出だしから違う。いわゆる「プリウス」ではない。粋なエコスポーツカーにダイナミックに変身してしまったようだ。モッサリした感じは一掃された。先代までのプリウスとは別の車になってしまった。そう「しまった」という表現が適切なのだ。
穏やかなのんびりした「エコしましょ」という雰囲気が充満したプリウスというイメージ。それはほとんどなくなった。「運転する車」への第一歩。目的が運転そのものになっても大丈夫そうな、そんな感じである。
「ヒトやモノを運ぶ車」
から
「ヒトがモノを運ぶクルマ」へ進化した。
私が言いたいポイントは新型プリウスは「主語」を作ってくれそうな車なのだ。その「主語」とはヒトであり、それはつまりドライバーである。
「車」が隠れた主語、いや「メーカー」が隠れた主語になることほど不幸で寂しいことはない。国産車は性能はいいのだが、ヒトが主語になりにくい。外国車、特にドイツ車と付き合うと、ドライバーの主体性を考えさせられることが多かった。確かに車内居住性は国産車に比べると劣るが、ドライバーあっての車であることを常に主張してくる、それが筆者の知るドイツ車だ。

ヒトとクルマのあり方に「このクラス」の車が新しいコンセプトと共に挑む。いや「このクラス」だから出来るのかもしれない。メルセデスであっても、AクラスだろうがSクラスだろうがコンセプトが一貫している。ドライバー主体である。日本車でしかも最大手のTOYOTAがTNGAという新コンセプトと共にそれを始めたことにまず拍手を送りたい。また同時にTNGA第1号機としての新型プリウスがまさに成功したことを喜びたい。この調子でクラウンやハリヤーなどといった同社のクルマに近い将来「主語を与える21世紀のトヨタ車」としての冠を授けてほしいものだ。

カタログにあった「ボタンからジッパーへ」は実にうまい例えだ。洋服でもボタンホックだとグラグラするがジッパーだとしっかり止まる。足回りがかなり違っている。
カーブでも、先代までは路上を滑っていくような心許なさがあったが、新型は地面をしっかりホールドしている。ハンドリングが明白に違う。当然なことだが、カーブを曲がってるという感覚がハンドルから伝わってくるのが新型であり、先代まではカーブの曲がりを体で感じているという感じだった。

また、メルセデスの安全性能に正面から挑む姿勢。ベース車価格200万円台でどれだけセイフティセンサー搭載のアピールが出来るのか。
まずバックミラーに搭載された「ブラインドスポットモニター(BSM)」が実によく反応する。車線変更等ミラーに目を向けるとピカピカとランプが点灯する。夜の走行ではかなり重宝することは必至だが、日中でも非常に便利だ。

車内の静寂さも先代とは比べ物にならない。まあこの点は先代がまるでダメだったので比較の対象が悪いことは否めないが、メルセデスにあるような気密感こそはないものの、ドアの閉まる音などはクラスを超えた良い感触がある。言うまでもないが高級車のようなドアの演出ではない。先代の「ベコン」というドア音から「ボム」というまとまった音に変化した程度だが、プリウスという車重と燃費の関係が厳しいクルマによくここまでドア音のチューニングができたなと思わずニンマリしてしまった。


残念な点は、やはり想像通りだが、デザインが良くなった点と相反するのだが、後部座席のドアが狭いことだ。一端車内に入れば後部座席そのものは狭さを全く感じさせないのは実に素晴らしいのだが、乗るまでが少し狭い。ただこれも慣れの問題だろう。座席そのものは先代とは大きく違って、シートに包まれる感じに好感が持てる。運転席、助手席はシートヒーター付きなので冬でもホカホカである。このシートに包まれる感じはスポーツ車に多い演出だが、今回新型プリウスで、まさかそれを感じるとは驚きだった。

また車内はセンターコンソール周辺の「ホワイト加飾」には賛否あるだろうが、個人的にはそれほど違和感はなかった。ダッシュボードが気さくなデザインなのはまあプリウスらしいのだが、グローブボックスとサイバイザーがすこしちゃっちいのが残念だった。特にサンバイザーの安っぽさには閉口した。まあプリウスだから、気楽さを優先しようと。。。(笑)

祖父と幼児期から新車を選び続けて、子供の頃からチェックしてきた重要ポイントに

1、ダッシュボードの質感。
2、グローブボックスがオープン時に「スー」と音無しに開くかどうか。
3、運転席と助手席の間にあるセンターボックスの蓋を閉めた時の音の質感。
4、シフトレバーとダッシュボードの統一性が上品か。

等々。
この辺りはプリウスクラスの車には求めてはいけないと思っている。
逆手をとって、この辺りを無視することで、「気楽」にクルマと向かう演出も可能だろう。

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by masatonet | 2015-12-22 20:51 | ヒトリゴト日記
筆者がプリウスと縁が出来たのはかれこれ5年前。家宝だったメルセデスが年代物だったこともあり、いやいまだに筆者の夢には出てくる名車だったのだが、友人知人の反対を押し切って!?(笑)、なんとメルセデスからエコカーの金十字であるプリウス(3代目)に乗り換えたのが、そもそも事の始まり。

エコカー減税なるものがあって、政府が何十万円か補助金を支給してくれる。まあ、この政略にマンマと引っ掛かった訳?!である。

さて、メイド イン ウエストジャーマニーのメルセデスからプリウスに乗換えて、
1、修理代がゼロになった(笑)
2、ガソリン代が5分の1になった。
3、「ベンツなんか乗っていやがる」という馬鹿げた嫉妬を一切受けなくなった(爆)。
4、外車ユーザーという重荷を27年ぶりに降ろすことができた。
5、軽自動車ドライバーからの明白な「外車コンプレックス」という名の嫌がらせを受けなくなった。

と、まあ良いことばかり(冗談)ではない。長年メルセデスに乗ってきた我が家の「ふつう」が今や「ふつう」でなくなった訳である。

1、プリウスに同乗した家人は「ねえ、どこか窓が開いているの?」と毎度尋ねるほど、車内の遮音性が悪い
2、高速走行は、まるで飛行機が離陸するかの様に、車体が浮かび上がる感じがあって、極めて恐ろしい。つまりプリウスは時速100キロ以上は出してはいけない、大日本警察連中が喜びそうな車である。
3、ドアを閉める時、メルセデスみたく閉めると、壊れるのではないかと思えるほど「ベコン」というオモチャのような音がする。家人曰く「まるで折り紙みたいに閉めないとね」は決して冗談でも嫌味でもない。
4、ハンドルが、う〜ん(笑)。長時間持っていると、なんだか疲れてくる。
5、(これは決定的なことだが)運転が全く楽しくなくなった。

と、まあ、じゃあなんでプリウスなんかに乗換えたのかい!なんて言われそうだが、そもそも「21世紀に間に合いました」というキャッチフレーズでデビューした初代プリウスから筆者は気にしていたのだから仕方がない。

その初代プリウスデビュー後1、2年後に知人が購入。自慢をかねて我が家に乗ってきたのが、昨日のようだ。
「へえ〜、発電しながら走るんだ」
「モーターも使って走るから燃費が良さそうだね」
「排気ガスがドンドン出て環境破壊に繋がりにくいのは良いね」
等々、すっかりプリウスエコ思考に汚染(笑)されてしまったのである。

その後、メルセデスの車窓からプリウスを見かける度に
「お、プリウスだ。エコしてるなぁ」なんて羨む!?毎日を送っていた訳であるが、数年後そのプリウスを遂に試乗した。無理をお願いして高速試乗もして、その時「こりゃ、いかんな」と思ったことも事実。しかしアバタもエクボ。惚れたら最後。一年近く待たされてシルバー色のプリウス(3代目)が我が家にやって来た。

その後は、トヨタの「うれCプラン」とやらに踊らされ続けて、プリウスからプリウスαへ初回の車検を受ける前に乗換えて、遂に今回「エロい」という噂の新型プリウス(4代目)に乗り換えることになった。当然今乗っているプリウスαは初回の車検を受けていないし、まだ走行距離15000キロ程度という家人友人が言うところの「新車同様」である。

しかも、である。
車検が来年の4月。今回6年ぶりのフルモデルチェンジであるエロいプリウスの発表日が12月。発表されてから注文なんかしていたら車検までに乗り換えることができない。。。。いやいや今のプリウスα、まだまだ乗っても良いんだけど。。。。いや、車検代が掛かりますし、折角の新型。。。。その車検代って、結局いくら?。。。。結構かかりますよ。。。だから、いくらなの?(笑)・・・。。。え、えっと8万。。。

とまあ、こんな会話を営業マンとし続けて、気がつくと、書斎机の上に「新車注文書」が置かれてあった。。。いや、別に営業マンの話に乗った訳ではない。

車大好きの祖父に幼児期から新車購入時にいつも手をつないで販売店に行っていた私である。祖父はなんでも1年度に買い替えていたような(爆)「オンナを変えるようなモンだ」という感じか。

まあ、その辺は今ここで話すのは止めておきたい。

新車を買う前には祖父と一緒に試乗をさせてもらう。場合によっては数回試乗させてもらう。そして念入りにカタログをチェックする。それらがまた楽しい訳である。それを何十回も今までやって来た。

そんな筆者が、今回のエロいプリウスを
試乗もせず
カタログも見ず、見ることが出来ず
注文したのである。

チラッと見たのは、営業マン専用のセールス販促カタログだけである。
ネット上の情報もほとんどない。
知ったかぶりが何人か、反プリウス運動を起している記事がある程度で全く参考にならない。


しかし、実は見せてもらった営業マン専用のセールスカタログに載っていたセールスポイントの文章に気になる点が色々あった。実際それで購入に踏み切ったと言っても過言ではない。

幼児期から祖父に車の買い方を習ってきた私が、気にした点は次のところである。

ドアの閉める音を工夫しました。
座席を工夫しました。
車内の遮音性を高めました。(外車との比較表付き)
車高を低くして「運転して楽しい車」を目指しました。


これは「恐らく」冗談ではないだろう。
メルセデスを長年乗ってきてプリウスに変えた時、一番残念だった点を全て、しかも一度に「なんとかしよう」としているトヨタの姿勢。このTNGAとかいうコンセプトは伊達じゃなさそう。

そう感じたのだ。

運転して楽しい。
これは外国車のユーザーなら誰でも分かってもらえる「常識」だ。しかしトヨタの車にはそれがない。クラウンは乗り心地、遮音性等々抜群であることは周知の事実だが、運転して楽しいかと言われると、残念ながらとなってしまう。

今でも思う。
メルセデスは運転して楽しい車だったと。
つまりそれが良い車の根底である。

プリウスにそれを求めようとしているトヨタは、なにかあるな。なにかを始めようとしているな。

それが試乗せずに注文した筆者の理由である。

エロい新型プリウス。
我が家に来るのは2016年2月だ。

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by masatonet | 2015-12-18 17:59 | ヒトリゴト日記
小保方晴子さんの事件。

ユニットリーダーの、、、
小保方氏、納得しかねぬ、、、
ユニットリーダーの
ユニットリーダーの、、、
小保方氏、入院し、、、、、

もはや滅茶苦茶、はちゃめちゃである。

目下2014年4月時点、未だにその真偽は調査中とのことであるが、STAP細胞がどうだろうが、コピーペーストがどうだろうが、iPS細胞に継ぐ大発見で、その最大の功労者、小保方さんと筆者が同じ世代で彼女が筆者の永遠のライバルである早稲田出身であるとか云々はこの際どうでもいい。
完全理学系の世界だろうが何だろうが、私は文系人間なので、科学的数学的、化学生物学的考察でなく、 それはできない故に、お家芸である、哲学的社会学的そして宗教学的教育学的にこの事件を備忘することをただ許されたい。またこの観点からの考えが今最も必要なのではないか、その全くの欠如がこの問題をここまで大きくしてしまったのではないかとすら思えてならない。

またおよそ天文学的確率だが、ご本人小保方晴子さんがこの文章をご覧になっても、エールとして昇華されるべく、入院中、その後のお心の支えにしていただければと思う。ブログというのは実際どうやって検索されるのかハッキリしない。こんなご時世ご本人が自分の名前を調べて、しかもこのブログに行き着くとはほぼ全く想像できないが、ゆえに気楽なわけだが、匿名性を使った誹謗は私の全く趣味ではない。小保方さん、ご関係者がご覧になる可能性はタンスにしまった宝くじを当選日の翌日に見るよりも高いかもしれない。勝手にそう思い続け筆を執る。

理学系世界で精神を拘束された人間には、何よりも宗教が必要だろう。アインシュタインの言を借りるまでもなく、それは間違いない。日本で偉大な科学者が少ないのも、戦後、オリンピック優賞が少ないのも、信心との関係があるのではないか、と誹謗覚悟で言いたくなるほど、この国は宗教迷走状態だ。科学には宗教が不可欠ではないのだろうか。どうして両者を引き離すのだろうか。部屋の掃除をするのは、「綺麗になった部屋を見渡して気持ち良く感動し神に感謝するためにする」のではないのか。どうして掃除は宿題を忘れた人の罰なのだ。ここに悲劇がある。そのような教育をし、受けてきた人間の何人が、高僧になるためには便所の掃除が大切だということを理解できるのだろうか。

さて、前置きが長すぎた。本題に入る。
今、人はいったい小保方さん(以下敬称略しOとする)に何を求めたのか。
世間がOにどうして欲しいと要求する前に、世はOに何をして欲しいのか。

謝罪か
辞任か
世は「良い子になる事」をOに期待するのか。

「ながらうべきか死ぬべきか、それが疑問だ。」
ハムレットは真摯にそう言っているが、まさにそうである。

今この文章は、プライベートリスニングルームで、嘗て筆者が全国をチャリティーしつつ歌ったマタイ受難曲、思い入れがきわめて強いバッハのこの名曲を、それをコルボが振ったアルバムを聴きながら綴っているわけであるが、だからと言って、今回のこのOの事件をキリスト教ドラマ活劇として安っぽく陳腐化するほど私も子供ではない。

しかし、考えれば考えるほど、これはやり過ぎだ。Oの失態を大きく取り上げすぎた報道は、自らの醜態をOへの弾劾でさらけ出し続けているのはただ呆れてしまう。踊るだけ踊っておいて、それをメシの種にし、その後、どうしてあんな伴奏をしたのかと、その踊りで一稼ぎし終わってバンドを責め立て、またそれをメシの種にする。全く愚の骨頂である。踊る前に大人らしい考察があるのではないのか。報道関係の謝罪なき無責任さは何時も呆れるばかりか、ここで21世紀においてマスメディアの時代は完全に終焉したとも言い切れる。
またしかも、Oが何度も何度もそんなマスコミに犯罪者のごとく取り上げられ、また涙し、身体を壊し入院中ですら自身の情報を気にし続け、Oのために弾劾される人々に対して深い自責の念を述べ続ける、そんなOに対して、これは出来の悪い教師が「その教師自身が作った劣等生」を生徒たちと一緒に笑いものにする「教室」の姿と全く同じと気がついた。人に備わるやさしさとは、人のことを自分のこととして知ることとは、かの日野原重明医師の名言だが、世の人は、もはや人でなく、心もなく、ただ驚喜したり、憤慨したりする狂人の集まりになりつつある。

これは、かつて『フランダースの犬』のレビューでも述べたが、私に言わせると主人公ネロは「十字架」に架けられたのだ。そして死んでいった。
つまり、Oは今まさに、極東の島国で、敗戦後69年無宗教状態である極めて特異な先進国家で、ひとり「十字架」を負わされた。しかも大小さまざまな「十字架」を負い続けることを余儀なくされ、極悪人バラバは許され、自分は十字架上で死を迎えるイエスよりも、はるかに科学的に高次な屈辱を「死ぬことを許されない十字架」とともに負わされ続けるO。これは一体何なのだろうか。


では、この男をどうするのか。
許してやるのか、それとも処刑するのか。

(合唱)
十字架につけろ
十字架につけろ
十字架につけろ


この部分、合唱で歌うと、私はどうしても気持ちが高揚し過ぎてしまい、その後、自身の愚鈍な残虐性をまた眠らせようと必死になっている。全くイエスの言うとおり「神よ、彼らをお許しください。彼らは自分がなにをしているかが分からないでいるのです」であって、人間の潜在的な残虐性は合唱中ですら芽生えるほどだ。


人は子供の頃から、色々な経験をして育ってゆく。よい経験、悪い経験、それは内的原因で起こったり外的な起因であったりするわけだが、むしろ悪い経験をすることの方が多いのではないか。ロマンロランの、人生は学校である、そこでは良い経験より悪い経験の方が優れた教師である、という金句があるが、人生とは、どうもそうらしい。私もO同様まだ四半世紀も生きていないので、一切全く藍いわけであるわけで、偉大な恩師たちの出藍の、、と成れればと妄想中である。つまり人は誰一人も完全でなく、完璧でなく、それを他人に大きく求めると忽ち過ちになる。事の次第では「十字架」を負わせることになるのだ。

今だからの笑い話だが、高校2年生の時、私は生まれて初めて大々的にカンニングをやり続けた。もっともカンニング自体は通っていた学習塾では茶飯事だったが、学校でここまで大々的にしたのは初めてだった。教科は物理という分野。教科書付属の問題集からそっくりそのままテストに出ているわけで、それなら問題集の解答集を持ち込めば間違いなく100点が採れるという極めて合理的な結論を出した当時の私は堂々と、しかも何度もそれを続けた。

当然、問題が発生した。しかもちょっとこじれた訳である。
私がカンニングをしていることを見つけたのが、何かにつけて私を目の敵にしていた輩とその友。ミッションスクールだったので、当然同級生には牧師の子息がきわめて多くおり、その友が、学内外で有名な某牧師の子。参考までに述べると、ミッションスクールで牧師の子息の権力は実に凄まじいものがある。
たちまち学年全体の知れ渡ることとなり、私は、いわゆる「つるされた」訳である。剣道部キャプテンだった私に対して暴力は極力避けられていたのがせめてもの救いだった。いずれにせよ悪いのは全く私自身であって、他の誰でもない。私を目の敵にしていた輩も、その理由も元を正せば私が全く悪い。

ここで少し余談を赦されたい。
実はこの二人はごく最近まで私の夢の歴代最高の悪役としてレギュラー出演していた。彼らが夢に登場すると極めて悪態を寝言で吐くようで、私はそれを聞かれた婚約者に逃げられた経験すらある。

母に相談すると、母は敬虔な宗教家故に、それこそ今までの未熟ではあるが私自身の宗教観で克服すべきだと言われ、それならばと、「汝の敵」のために祈りはじめたわけである。

「千里の堤も蟻の穴から」

とはよく言ったもので、毎晩毎晩、どこに行っても、スペインであっても、デンマークでも、イタリアでも、フランスでも、アメリカでも、ドイツでも、眠る前に彼らのために幸あれと祈った。

最初はいい加減だったし、また腹も立った。しかし兎に角祈りを続けた。

悪役レギュラー出演の契約は実に高校卒業後幾十年目にして満了し、素晴らしいフィナーレが行われ、二度と見ることが無くなっただけでない。もやが晴れ、解き放たれた感じが続いている。
私も弱い人間であって、ちょっとでも油断すると、サタンという名のマネージャーが彼ら黄金レギュラーメンバーにコンタクトを取り始める。祈りに終わりはないという訳である。

カンニングの話に戻すと、私はそれまでのイメージを完全に破壊されてしまった。友は一斉に離れていった。異性云々以前の問題だ。ただしその理科を教えていた先生は、懇談会の時、私を徹底的に褒め称えと後で聞いた。極めて決まりが悪かった。なぜ先生が私を褒めたのか、無論私の愚行一切を知らないことは明白だが、それにしても、両親の談だと、本当に大変なお気に入りだったようだ。本来なら私もその懇談会に居るはずなのだが、当然嘘は次の嘘を作っていっている最中だったわけだ。


さて、Oは「ならがえて」いる。今のOの存在だけで、私は自分の恥部を鮮明に思いだし、また再び今夜も祈らないといけない。

人は、世は、Oの周りの人は、誰が完全無欠なのか。どうしてOだけを「十字架」に付け、自分たちは眺めているのだ。

今私がしてほしいこと、それは小保方晴子さんの謝罪や撤回ではない。


関係者や、彼女をつるした日米他マスコミ報道者、一人ずつが、Oという島国の女を十字架からおろし、自分たちがOに負わした「十字架」を自分の「十字架」として、「各々の恥部という名の十字架」として、それを負い、世の前に進み出ることだ。

誰一人、小保方晴子さんを責めることはできない。

もし未だに責めていたなら、責めたいならば、その人は「完全無欠」に向かってゆく、ドン・キホーテの亡霊である。

彼女を責める、その憤りの先には、残忍さ溢れる孤独死だけが貴方を待っている。
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by masatonet | 2014-04-17 22:13 | ヒトリゴト日記
先日、時代外れのスポーツカーに試乗して以来、いろいろ考えることが増えたように思う。

特に環境問題が表面化してきたころから、エコが叫ばれるようになり、環境保全の元で省エネ名目の普遍化が圧倒的に生活へ浸透したように感じる。

教育では「放任」を「個性化」とはき違えた無知な親が増えたことは愚かなことだが、工業製品は一斉に個性的なものから普遍的なもの(省エネ、効率化重視)へ舵を取り始めたのだ。

たしかに60年代から70年代、そして80年代、バブルが始まる直前まで、やり過ぎたことは否定しない。エネルギーも使いまくり、環境も汚しまくり一辺倒で、まさに「調子に乗りすぎた」ではすまされないレベルの浪費を社会全体が良しとしていた。ガイアが「時速40キロ制限でお願いします。ならば、皆が満足してゆったりと暮らせます」と言っているのに、我々工業先進国は「時速500キロで飛ばしあげろ!いやもっと出せるかも知れんぞ!!」と滅茶苦茶をした訳である。そのあまりの暴走にガイアの警備隊も我々を停止させることは出来なく、ある意味「自滅してもらうしか手がない」と放任されてしまったのだ。そんな日本の生活スタイルの変化に追い打ちをかけたのは、やはり欧米の「反もったいない発想」とも言うべき使い捨て文化だ。

そして行き着いた所、いやまだ行き着いていないのだろう。格差がますます広がり、持つ人と持たない人の間、いや持つことに意味を感じない人との間の意識の差が果てしなく広がっていく社会がすぐ直前まできている。

高級とは「静けさ」だと筆者は思っている。これは独断なので反論もあるだろうが、あくまでも私個人の見解だと、高級品と普及品の違いは「静けさ」と「その演出」に他ならない。

高級ホテルのロイヤルスイート。極めて静かである。そしてVIPにはレストランも貸し切りになる。そこには超高額な「静かさ」が提供される。当然だが、ただ単に「シーン」と静まりかえっているのではない。心地よい「静かさ」が人工的に演出されるわけだ。

高級車。価格の差はまさに「静かさ」以外にないと言っても良い。車外の雑音の「処理」の仕方がちがうのだ。当然ただ密室にして音を閉め出しているのではない。

高速道路を時速120キロで走行した場合、メルセデスベンツでは通常の話し声で後部座席に乗った人と話が出来る。プリウスではそうはいかない(笑)。

私の趣味であるオーディオだと、価格差が音質差となることは必死だ。そして音質差は「静かさの演出法」の差という訳だ。
オーディオとはほど遠い世界に生きている近所の老婦人達に私のオーディオシステムで音楽を聴いてもらったことがある。ある80歳に近い婦人がポツリと
「部屋や窓が揺れるくらいの大きな音を聴いているにもかかわらず、音自体がとても静かですねぇ」と呟いた。私は思わず嬉しくなり「いや、ひと言で核心を突かれてしまいました」と返事したことを覚えている。

お金を掛けてゆくと、結局は「静けさの演出」へ行き着く。

車だと、マイバッハとフェラーリを比較するとその「演出」がまるで違うことは火を見るよりも明らかだろう。
オーディオだと、TADフルシステムとゴールドムンドフルシステムを比較しても明らかなのは「音と音の間の無音の演出差」と言いきっても良い。音楽を聴いているのに実は「無音時から来る感動」を期待しているわけだから実に愉快だ。

ピアノを弾いていると、アタックの後にどのくらい「溜め」を持ってきて空間に音を広げていくかが味となる故に、休符は単なるお休みでは無く、「無音の演出」を必死にしているわけだ。

地元のセミプロオーケストラとアムステルダムコンセルトヘボウが同じ曲を同じホールで近い時期に演奏したことがあり、とても有意義な経験が出来た。

地元オーケストラだと、なにかと騒がしい感が終始ある。なにか落ち着かない。
しかしコンセルトヘボウは無から湧き出て、そして無に帰る演奏だ。音が消えていく時に感動で涙がドッと溢れる。どれだけFFで終わっても音が無音に向かうのが明らかに解る。それが超プロと言われる由縁だなと改めて実感できた。


さて、その普遍化の問題だが、最近になり工業製品がことごとく個性的で無くなってきている。
先日、新型のラウンドクルーザープラドを試乗して、改めてそれを痛感した。
あれは四駆車ではない。ただ単に車高が高い高級セダンだ。これならセダンを買えば良いではないかと言いたくなってくる。ショールームにはレクサス車のカタログが派手に置かれていた。その中から四駆タイプ(以前のハリヤー)を探すのに苦労した。カタログのデザインもさることながら、車のデザインがどの価格帯でも「ほぼ同じ」だから。

なんでも省エネの影響か、エコの影響かはわからないが、四駆車のスピードメーターにも「Eco走行」ランプが点灯する。う〜む、Ecoを気にするのであれば、初めから四駆車など買ったり乗り回すこと自体笑止なのではと思うのであるが。

ゴツゴツした乗り心地、そして四駆車らしいパワフルな走り、これこそ四駆車だ!という感は皆無で、言い過ぎかも知れないが、マークXの車高を高くして4WDにしたという感じ。車内の作りや静けさ、アクセルワークのスムーズさ、どれを取っても「いわゆる四駆車」では全くなく、「車高が高いセダン」に他ならない。

へえ〜最近トヨタもこんなデザインの車を出したんだね、、と思ってよく見たらベンツだった。
お〜お、流石ベンツだな、堂々としたもんだよ、、と思ってよく見たらレクサスだった。
なんて、別に僕の目がおかしくなったわけでは無い。


100%個性が失われた訳である。時代がそれを求めている。やり過ぎた過去の埋め合わせは当然しなければならないが、我々の個性も「害」として排除する必要があるのか。

デジタル時代の最高にして最大の病巣
「個性を普遍化し、エコやらの仮面を被り、100人いれば100人とも同じ顔にすることに疑問を生じさせない利便性で個性溢れる思考回路を完全に麻痺にさせる」

これに今後我々はどのように対応して行く必要があるのだろうか。
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by masatonet | 2012-11-12 22:11 | ヒトリゴト日記
とかく、人はなにかと「分類」したがる。

学校に行かないと「不登校」とする
成績(特に学業)の高低で「優秀」「劣等」とする
いつも母親と一緒に居ると「マザコン」とする
学校が終わりどこにも行かないと「ひきこもり」やら「ニート」とする
やたらチャラチャラした服装や装飾品を身に付け年齢が親子ほど離れた異性をつれていると「成金」やら「ロリコン」とする。
いい歳して独身でいると、「パラサイトシングル」やら「行かず後家」やら「アラXX」とする
離婚して親元に帰ってくると「出戻り」とする
40歳過ぎて初産やら結婚やらすると、やれ「晩婚」やら「高齢出産」とする。


概ね、社会学者やそれに準じる自称インテリ達がそう「分類」するのだ。
分類しないと研究対象として取り上げにくいのだが、過剰な分類ははっきり言って必要悪だ。

じつに五月蝿すぎて冷静な判断を許さない雰囲気を作っている。馬鹿げている。

分類する人は、そうやって彼らが勝手に作った「中心」より外れた人達を「追いこみ」「十把一絡げ」にすることを平気でする。

まず日本人は、そう言った過剰な分類を止めるべきだ。
もうすこし静かに生きることを良しと出来ないのだろうか?

「まとも」「まもとじゃない」というけれど、一体それはなにを基準に言っているのか。単に税金を払っているか云々ではないのか!

考えると、世の中が上記のように分類して批判している人達はこぞって「税金逃れ」をしている人達のような気がしてならない。とくに過剰に煽る「結婚に関する云々」などは最たる所だ。

まさに、カネが中心の社会なのは周知の事実だが、カネカネカネ言っていると、今度は「拝金主義」と言い出す始末。なにを目指して生きているのか。

一体、この国は国民を幸せにしようとしているのか、追いやろうとしているのか全く不明。
現時点だと、「可能性が高い人達をドンドン精神的に追い込んで行き、ますます事態を悪化させ、ひいては国自身、自分の首を絞めることになる」のは火を見るよりも明らかだ。
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by masatonet | 2012-11-05 10:40 | ヒトリゴト日記

TOYOTA86

オトコなら「結婚する前にやっておきたい羽目外し」は一つや二つはあるはず。もっとも、そうは言ってもゲームやら萌えアニメだけに生きている人種には想像もつかないだろうが。
今日も、行きつけの喫茶店でいい歳した白髪のオッサンがNintendo3DSでゲームをしていた。私は自称コアゲーマー(ネトゲ歴7年ならそういっても良いだろう)だが(だったが)、夫婦で喫茶店に来て、白髪で無精ヒゲを生やしてまでお子様用ゲーム機DSのゲームをしようとは全く思わない。恥ずかしくて出来ないのが本音だ。つまりそのオッサンらは羞恥心など全くないのだろうが、ともかく哀れに見えてくるのは私だけではないろう。

おっと、つい横道に逸れてしまった。その「結婚前の羽目外し」だか、

1,経済性とはほど遠い高価な物品を買う
2,徹夜で他の独身女性達とワーワー騒ぐ
3,自宅で部屋を複数占領して趣味を楽しむ
4,一人旅に気ままな出て、気ままに時を過ごす
等々

個人的に「2」は一度も実践したことはない(笑)。「3」はここ数年実践中で、「1」も、まあ程よく(笑)やっているが、今回は「1」に準じたことをやってみようとしている。
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TOYOTA86というスポーツカーが発売されて久しい。若者の車離れが嘆かれている(実際なんで嘆くのか分からないが(笑))にもかかわらず、世界のトヨタがスポーツカーを発売したのだ。発売されてまだ数ヶ月しか経っていないから売れ行き等今後の動向が気になるが、トヨタ社員は価格が手ごろである故に結構乗っているようだ。

後部座席は一度座ると身動きがほぼ取れないくらい狭い
燃費のことは初めから考えない(笑)
環境に優しいと言うことも初めから考えない(笑)
つまり「運転が楽しい」という事以外は考えてはいけない

と、まさに「時代」に、「家族生活」に逆行している車、それがスポーツカーである。

MT(マニュアル)車を試乗したいとディーラーへ依頼。試乗車は準備できず、トヨタ社員の車を借りる形で試乗をした。色はオレンジ。昔、TOYOTA2000GTやらセリカXX2800GTやらに乗っていた我が一家は、車高の低さには抵抗なく対応できたが、後部座席の狭さはセリカとは比べられないくらい狭かった。

実際走ってみると、、、案の定、5年以上もMTから離れていると、全くダメ。辛うじてエンスト連発やらノッキング連発からは逃れたが、クラッチを離すタイミングが至難。一速に入りづらいし、後部座席に載った営業マンは冷や汗でビッショリ(爆)。助手席には家族を乗せたが、私の3速発進やら時速70キロでいきなり1速に落としての高回転させたエンジン音ですっかり恐れ戦いてしまったよう。数分の試乗後、エンジン(おそらくクラッチ板)が焼けるにおい!?が・・・。車を提供してくれた社員の方に改めてお詫び致します。

「やはり、あの〜、AT車を準備致しますので〜、その〜」と営業マンもドギマギ。「そうですね、ヨロシク!」と軽く流したが、MT車は極めて面白かった。半年くらい練習しないとちょっと危ないかも知れないが(笑)、あの「操作感」「支配感」は爽快そのものだ。

AT車がやってきた。やはりトヨタ社員の車。色はホワイト。父はレッドが良いと盛んに言っているが、ホワイトも悪くない。上品な感じが漂っている、、、って、もう買うつもりなのか!?(笑)

アクセルフィーリングが極めて楽しいのはスポーツ車ならでは。アクセルを踏むと極めて敏感に反応してくる。また必要以上に「エンジン音」が溢れてくる。AT仕様でも(当然MTほどではないが)充分その楽しさが味わえるのが流石はトヨタ製。以前デートでミニクーパーを試乗したことがあったが、あれとは比べものにならないほど「楽しい操舵感」を堪能できた。試乗コースは「大」「中」「小」の内、「大」。とは言っても10分程度なので、大きな事は言えないが、包むようなシート感、車と一体になったようなハンドリングとアクセルフィーリング、実に何十年ぶりに「楽しいかった」と言えるドライビングが出来たことは言うまでもない。レンタカーで半日くらい乗ってみたいのが本音だ。首都圏やら近畿地方では86のレンタカーがあるようでなんとも羨ましい。

コンビニやらファミレスやら、「よろしかったっす」「ふつ〜にゲンキ」「どんだけぇ〜」等々の日本語に溢れた低脳なテレビ番組やらに洗脳された日本の若者からは完全に失われたメカへの愛。「機械と肉体が直感的に結びつく快感」を100%刺激できる車、それがTOYOTA86だった。

10年後も販売を続けているだろうか、甚だ心配だが、トヨタのような大企業が極少数派に向けて低価格でこのようなスポーツカーを発売したこと自体エールを送りたい。

なにはともあれ、久しぶりに「買いたい!」「実際買える金額だけれど、このご時世で、ここまでぶっ飛んで遊んでしまって良いのだろうか」と真剣に考えさせる車であった。

やはり気になるのはMT車を提供してくれた社員の方へ、半クラによる「焼け」を起こしてしまった事を改めてお詫びしますm(_ _)m。
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by masatonet | 2012-10-27 21:34 | ヒトリゴト日記
世の中、これほどまでに価値観が多様化していたことは人類史上今までない。
家電がここまで日常生活に浸透し、パーソナルコンピューター(携帯電話)を肌身離さず使う現代人。地球上の全ての国が同じ物質文明国で、豊かではないにもかかわらず、電子文明化の波がアマゾンの奥地にまで「価値観の多様化」を伝えている。

とは言え、未だに40年前のカビの生えた価値感上から動こうとしない人々が多くいるのも確かだ。

「ようやく息子(娘)も落ち着き、親として安心しております。」
「初宮をすませ、おじいちゃんとおばあちゃんが・・・」
「息子の太郎もお世話になった頃はハナタレでしたが、あれも結婚して・・」
「!!!子供が生まれました!!!」
等々

はっきり言うと、そんなどうでも良いことには興味ありません。
貴方の近況にだけは興味ありますが・・。

もう一度言うと、
多様化した価値観がうごめく現代に生きていて、独身やら結婚やら、孫やら、子供やら、そんなことどうでも良いのだ。不変不滅な価値があるのは「死」くらいで、それ以外はいちいち報告するまでもない。「それだけが人生ではない」時代が完全に到来しているからだ。そればかりワーワーギャーギャー言っている人達が馬鹿者にすら見えてくる。「哀れだな」と思っているようだが、フタを開けるとそう思われているのは実は「哀れだ」と思っている貴方の方だ。お気づきだろうか?

 もっとも、平素からお世話になっているならば報告くらいしないと失礼だろうが、それでもしつこい。ちょっと触れれば良いのに、何度も何度もくどい。「あんたね、他に喜びないの?」ってゆっくり目を見つめて問いたい。自分の子がセックスするようになって、合法的なセックス相手を見つけて喜ぶのはあんただけで結構。こっちはもっともっと人生エンジョイしているから貴方自身やら、貴方の子供のくだらない「痴話話」には興味一切なし。気持ち悪い。もっとも後進国では他に喜びがないが故に未だにセックスだけがはびこり、子供ばかり出来ているようだが、まったくその次元で止まっている。なんともはや、時代を逆行しているというか、ため息すら洩れない。本当に同じ時代で同じ国に住んでいるのだろうかと真面目に疑ってしまうのはなにもこの文章の筆者である私だけではないだろう。

 驚きは、いきなり出し抜けに十数年ぶりに便りやら電話を掛けてきて、式に出てくれをお願いするにしても、子供が生まれたにしても、
突然、阿呆なくらいテンションが高いまま、気狂いそのもので
「OOさん、おられますか!!!!!!?」
「家族のものですが、ご伝言を承りますが・・・・」
「いや、個人的なことですので」
なんて厚かましいことこの上ない。
なにが「個人的」だ。大体あんた自身がこちらの様子を伺うのが礼儀なのに、それを全くせず、自分の後進国的価値観を押しつけてくるので、もはや夜中の暴走族より始末が悪い。

前に触れた「甥甥、姪姪の行かず後家」にも当てはまるが、
全身が歪んでいる。いわんや心をや。


また再び言うが、

全ての人は、同じ価値観で生きているのではない。

 いきなり待ちで出会った見知らぬ人に自分の趣味の盆栽について詳しく話すのが迷惑であるのは周知の事実であるが、自分の興味あることは相手も興味あるはずだなんて、まったく小学校低学年レベルだ。押しつけも甚だしく、厚かましさを通り越して敵意さえ感じる。それに近いことをいきなりの電話や手紙でやっている愚かなカビの生えた人達が多いこと、実に腹立たしい。

 五十代で初めての子供を授かる女性が増えてくる時代なのだ。そんな時代に生きて、20,30,40で独身であることを哀れんでいるなら、それを哀れんでいる貴方を心から哀れみたい。と言うよりそんな人との縁は一刻も早く切りたい。小学、中学、高校、大学、入社、結婚、最初の昇進がすべて二十五歳までに終わっている時代は完全に終焉を迎えた。

 そのように進んでいない人を見ると、まるで動物園の動物を見るかのように哀れむような目つきでジロジロ見るが、正直なところ、ジロジロ見ている貴方には逆立ちしても理解できない価値観で生きている人々が、日々増えていって、その内、貴方のような人が最も嫌悪の対象になることを覚悟しておかれたい。
 幸か不幸か、全ては自分と同じ価値観しかないと思い、平気に孫の写真や話を家族以外の人にする人達は、その価値観が揺らぐことが極めて少ない。田舎に住む井の中の蛙であるジジババ(若い人でも)に価値観の拡大なんて不可能なのだ。ただ、不幸にしてその価値観が揺らげば、それが人生のいつであれ、大いに悩み苦しむことになるだろう。
 そして皆に嫌われ、子がいようが、孫がいようが、婿がいようが、嫁がいようが、孤独に死んでいく。それが21世紀であることをしっかり理解されたし。
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by masatonet | 2012-08-10 20:40 | ヒトリゴト日記

断ちモノはエコ願い

「願断ち」というものがある。

「おっとうの病気を治してくだせえ。治るまで、あっしは、でえすきな魚を断ちやす」
なんて、よく時代劇に出てくるようなありふれた民間信仰の一つだ。

イワシの頭も信心から・・・ではないが、最近になって「願断ち」はもしかすると精神界のエコではないかと考えるようになった。

ドラえもんの道具でも「断ちもの願」に関するものが出てくるが、たしかに「自分がとっても好きなモノを断つ」事に意味があるので、好きでも何ともないモノを断ったところで意味がないくらい誰でも分かる。この誰でも分かる・・というところが面白い。

XXXXするまで、OOOをやめる

私も最近になって、願断ちを始めた。

何を断って、何に願を掛けたかは「ひみつ」だが、
いずれにしても、私は三度の飯より好きな「こと」をきっぱり断ったのだ。

願い事が叶ったら、
その時、ここにその「願」はなんだったのか、そして「何を断った」のかを明らかにする。

なにせ自分のコンセントレーションエネルギーが100%、断ったモノ(大好きなモノ)から離れるのだから、願い事が叶う可能性も圧倒的に増えるというものだ。これは極めて合理的だし、なにしろ実に理にかなっている。

まさに未来永劫、願断ちは「エコ願い」ではないだろうか。
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by masatonet | 2012-07-30 20:22 | ヒトリゴト日記
独身は罪なのか?
「ひとり者」は可哀想なのか?

インターネットを閲覧していると、バナーで「結婚診断?アラサー、アラフォー決別」とかいう宣伝が莫大に増えた。「うっそ!私の年収低すぎ・・」バナーも多いが(笑)。
つまり、独身が多い。そしてその殆どが結婚したいのだ。
ただ、結婚って、婚活みたく、自分でどうこうできる問題なのだろうかと、ふと考えた。

人間、生まれるのも死ぬのも自分の意志ではない。
しかし、我々人類はドンドン傲慢になってきて、生死を操ろうとし始めている。

なんでも思うようにしたい。

より良い人生を生きるために良き伴侶を得て共に協力しあう
そのための結婚であるべき。

しかし、目的が「結婚そのもの」になっているのは明らかにおかしい。

人間性をより深めるために大学に行く、そのために受験勉強をするのである。

しかし、目的が「受験合格そのもの」になっている。これがおかしいのと同じだ。


なにかに陶酔したいのだろう。訳が分からず闇雲に日々生きていると「目印」が欲しいのか。しかしこれらは「あくま」で「目印」であり、「通過地点」であるだけで、目的では決してない。

結婚
出産
合格
入社

それそのものは全く特別の出来事ではない。
しかし、それをなんだか特別視させようと仕向ける世の中の連中は滑稽だ。

どの合格者レポートに、
結婚成功カップルレポートに、
入社秘訣レポートに、

「私は、(結婚・出産・合格・入社)後、以前に比べてXXXXXも日常生活が過ごしやすくなり、視野が広がり、OOOOの点で以前より充実したと思う」などがあるだろうか。
まず、あり得ない。健康食品購入者レポートは逆に、そのような内容ばかり載っている。なぜなら、皆、その「効果」に関心があるからだ。


故に、私は問いたい。貴方に率直に問いたい。
結婚
出産
合格
入社
して、貴方はどう変わったか。何を得たか、そして何を失ったか。

そして、それに続けてこうも尋ねたい。
貴方が
結婚
出産
合格
入社
前にあった自分の問題は、その後解決したか?もししたのなら、間違いなく新たに発生した問題と天秤に掛け、どちらが貴方により負荷を掛けているかと。


(つづく)
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by masatonet | 2012-07-20 20:08 | ヒトリゴト日記
最近になって、独身女と話すことが異常なほど増えた気がする。
どう見ても意識過剰な彼女らに対して「結婚」の「け」の字も触れることなく話を続けるのはなんだか不自然極まりないが、
本音は「絶対に結婚したい」のに
「興味ありません」とか
「理想の人がいないので」とか
「価値感が合わないで苦労するよりも一人のが気楽」等々、
好き勝手なことをペラペラ平気で男子に話す。
奥ゆかしいなんて死語だなと痛感。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿はユリの花」
なんてもう伝説になってしまった。
実に困ったものである。

ここ10年くらいで倍とまではいかないにしても、独身女はまるで男のように振る舞い始めているようだ。自分の趣味に走ったり、「まじ、うざぁ」「死ね」等の汚い言葉を平気で使う。
化粧をしたり、ブランドで身を包む前に、自分の言葉使いをただして欲しい。

姉妹でも、大抵は、ワガママな姉は行かず後家、ワガママな姉に鍛えられた(笑)妹には赤ちゃんがドンドン生まれる。
こんな例、私の周辺で意外と多く見かける。
まあ、行かず後家は別に姉妹だけで起こっているのではない。兄妹でもしかり。兄弟で一方が早婚、もう一方が未婚・晩婚という例も増えているようだ。

しかも、最近になり目に余る現象。
行かず後家たちが、甥や姪を自分の子供のように(実際彼女らは子供がいないのだが)「狂ったように」可愛がるのだ。
私が最近会った行かず後家たちがした振る舞いでは次のようなものがあった。

1,やたらに、甥や姪の写真を見せて自慢してくる。
2,話をしていると四六時中「あの日は甥っ子と一緒に・・」とか「姪っ子が熱を出して・・」と、とにかく「おいめいおいめい」言っている。そもそも「姪っ子」「甥っ子」ってなんなのよ。まるでペットだ。いやまだペットのほうがよほどマシか(爆)。
3,携帯電話の待ち受けに甥や姪の写真を入れて、それを見るたびに、にまにましている。
4,甥や姪の仕草を事細かに説明し、「可愛いでしょ、可愛いでしょ」と執拗に同意を求めてくる。
5,挙げ句の果てには、甥や姪と一緒に写った写真を年賀状や暑中見舞いに使ってくる。
6,自分が「ひとり者」であることを強みに(笑)、常識では考えられないくらい高額なオモチャやぬいぐるみ、子供服などをドンドン構わずプレゼントする。
等々

まあ、行かず後家達も必死だ。なにかを可愛がりたいのだろうが、その程度が甚だしい。そのような無責任なかわいがり方を続けてはますます行かず後家に拍車が掛かること必死だろう。そんなに甥や姪が大切なら、あんたが育てたらと言いたくなるほどだ。呆れるよりも気持ちが悪くなってくる。

つい先日も、「めいめい」言っている行かず後家に思わず
「子育て大変だね、でもご主人にも協力してもらわないとね」
とウッカリ言いそうになったくらいだ。
話を聞いている方も注意しないと危険極まりない。
しかもこの現象、およそどの国の「行かず後家」でも同じようだ。
まあ、「結婚」という最高にして最大の問題から逃げたいのだろうが、あんたの子の話ならともかく、どうでもよい甥や姪の話を聞かされ続けるこっちは実に迷惑千万だ。なんせ、とにかく気を遣ってしまう。あんたのくだらない「おいめい」談のためにこちらがきまりが悪くなるなんて馬鹿げている。まだ、延びに延びたカップラーメンでも食べていた方がよほどマシだ。


「自分勝手に追っかけファンの延長で男を一方的に好きになるんじゃなくて、貴方自身が好かれる女になりなさい、そうなるように努力しなさい」
「甥や姪はあんたの子じゃない。まず自分の恋愛のことを考えなさい」
「自分の子供をまず産もうね。そのためにはゴタゴタ言っていないで結婚しなさい」
「貴方は男ではありません。適齢期過ぎてもやけくそにならないで自分相応の相手を一刻も早く見つけなさい。そして素直に、「結婚したいです」と言いなさい。ひん曲がっているとひん曲がった人生しか送れません」
「貴方の周りのステキな男性は「間違いなく」、「おいめいおいめい」言っているおバンな貴方を極めて嫌う。そして、挙げ句の果てには、近い将来その甥や姪にも「間違いなく」馬鹿にされる。「あ、もてなかったおばちゃんだ」「おばちゃん、なんでひとりなの?、なんでなんで!」と」
等々、
「おいめいおいめい」
「おいっこがねぇ〜」
「めいっこがぁ〜」
と絶えず言っている行かず後家達に対して
イイタイコトは山のようにあるが、
こんなこと直接面と向かっては口が裂けても言えない(爆)
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by masatonet | 2012-07-14 11:02 | ヒトリゴト日記