私の手記- memoir -です


by masatokunkeio

レコード市

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大体クラシックファンなのでLPレコード市ではついついクラシックメインで買ってしまうが、今回はビルエバンス中心に買いました。エバンスだけでも15枚以上。クラシックは1枚あたり200円から1000円くらいですがジャズだと1枚3000円を超えるLPもざら。

過去最大のディスクセールだったようですが、私の購入したLPレコードの合計も過去最大。

一見置き場がなくなってきているが、
そこは掃除好きである私の腕の見せ所。

膨大なレコードが新たに6畳間に入ってきても、以前と変わらないレイアウト。
棚も増えることなく、床の上や壁に立てかけたままのレコードも一切無い。

一人で持てない量のレコードがやってこようとも
それらは皆、私のウサギ小屋書斎の中に綺麗に収まった。
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# by masatonet | 2011-10-30 15:56 | ヒトリゴト日記
こんなことが起こっているならまだアラフォー、アラサーと呼ばれた方がよほどましだと思えてならない。今の10代20代に「日本人の心」を見いだそうとすべきでない。
彼ら彼女らは全く宇宙人だ。
99.98%そうである。
日本人に化けて主人公の周りに潜み、主人公を殺して食べようと隙を狙っているのだ。
特に10代後半と20代前半の女子を見ろ。
彼女らが発する「ヒトのことば」のようなものを聞いてみろ。
あれはもう獣人だ。
人間ではない。

おお、神よ。我ら迷える子羊たちを憐れみ給え。
変えることが出来るものと出来ないものを区別する心の安らぎをどうぞ与え給え。


とあるネット上にあった情報より。
(引用ここから)

洋画が危機なのだという。
字幕の漢字が読めず、それが理由で
劇場に行くのをやめる若い観客が増えているのだそうだ。
私が観たテレビの特集では、「第三の男」を見せられたコギャル三人が、
難解(?)なセリフと漢字の続出に退屈しきっている様子が映し出されていた。

そこで、翻訳する側も平易な意訳を心がけ、
やむを得ず使う漢字にはルビを振って対処しているらしい。
まあ、昔の「立川文庫」の少年小説にはすべて漢字にルビが振ってあったと聞くし、
そんな時代への回帰だと思えば腹も立たないか。

現に、私もあるテレビドラマに携わったとき、
「中学生に理解出来るレベルで書いてください」と注文された経験がある。
「難しい言い回しはそれだけでチャンネルを替えられます。
クドイくらいに分かりやすくお願いします」

というわけで、「名状し難い思いで」とか、
「暗然と虚空に目を泳がす」などというト書きは当然のようにご法度。
まあいいかと、「複雑な気持ちで」とか、
「落ち込んだ視線をさまよわせる」と改めるのだが、
本当はそれでもまだ難しいらしい。

「慄然と」は「キャッと」、「憤然と」は「キレて」、「唖然と」は「ヤバいと」。
「嗚咽」も「噎び泣き」も、「涕泣」も「貰い泣き」も、区別なくすべて「号泣」。
「銃声」は「バーン!」、「急ブレーキ」は「キキーッ!」、
「固唾を呑む」は「ゴクリと」。

てな具合に書けば、若いスタッフ・キャストのノリも良く、
視聴者受けも見込まれて20%超えのヒット番組が出来上がる。

というわけでもないだろうが、
せめて「入り口は浅く、出口は深く」という方法論でも模索しない限り、
「考える」という行為をとっくに放棄している若い観客たちの、
奥底にひそむ感動を誘うのは不可能な時代になったことだけは確かなようだ。
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# by masatonet | 2011-10-23 20:44 | ヒトリゴト日記

iOS5.0

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ジョブズが亡くなって、初めてのビッグイベント。
過去最大級のアップデートだ。

しかし、バックアップ中にエラー発生。
これも初めて(笑)。

結局、初期設定から全てやり直し。
しかし、アプリやメールフォルダーの内部データはしっかり残っていました。

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バックアップデータはかなり大きいもの。

アップデートにはかなりの時間掛かります。
どの意味でも過去最大級のアップデートです。
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# by masatonet | 2011-10-14 09:18 | Macフリーカー
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どうやら本当のようです。
これからがアップル社の正念場でしょう。
ジョブズのないアップルはいつも船頭無しでダメだったから。
ジョブズが作ったものの焼き直しを続けてしまう可能性大。
一人のジョブズファンとして
お悔やみ申し上げます。

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# by masatonet | 2011-10-06 09:50 | Macフリーカー

映画 ノックは無用

米 白黒。1952年
マリリン・モンロー。
どうしてモンローはこんな役ばかりなのかと思ってしまうが、幸か不幸かこういう役がピッタリなのだろう。なにも説明しなくてもセクシーさが溢れているのは、観客はモンロー自体に勝手に自分の「セックス癖」を当てはめて見ているからかもしれない。
他の映画でも少し気になったが、モンローのシーンは撮り直しが少ないのか、それとも出来なかったのか、彼女の仕草がダブっているところがある。そのままになっているところからすると監督達も苦労したことだろう。

今回のモンローは精神病院から退院したばかりの情緒が不安定な女性を演じている。
このような演技を見る度に実際に起こった彼女の悲劇的な死を暗示しているように思えてならない。実際、これほどの演技をするためには彼女自身の心をよじれさせ、自身を立ち直れないほど憂鬱にさせたに違いない。比較して悪いが、最近の日本の時代劇やテレビドラマに出てくる人気アイドル達の演技全てが「茶番」であるとすると、このモンローの演技は彼女自身の人生をかけたまさに「命がけ」の演技だと言い切れる。

恋は実らず、来るべき恋は壊される。決してハッピーエンドではない。
どちらかと言うとバッドエンドなのだろうが、モンローが演じると単なるバッドエンドで終わらないのが非常ににくい。

精神が不安定である感じを出し続ける、ずっと宙ぶらりんのまま歩き続ける様、まさにモンロー演技の醍醐味の一つであろう。
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# by masatonet | 2011-09-21 00:14 | ヒトリゴト日記

映画 裏窓

米 カラー。1954年
ヒッチコックのサスペンス映画
全てセット。明らかに「人工的に作り上げた風景」の中だけで物語が進んでいく。
自室から全く動けない主役ジェフこと、ジェームズ・ステュアートが退屈しのぎに窓の外から見える近所の人たちのドラマを想像力働かせて見ていくストーリー。

一見、単なる「のぞき」もので退屈そうだが、実際は結構引きつける。
ヒロインのリザをグレース・ケリーが演じているので、女優の「美」は100点。さすがモナコ王妃になっただけはある。ただ、いくらヒッチコックのお気に入りだったとは言え、彼女の美しさはこの映画だけだと100%発揮できていない感がある。

映画の後半はストーリー展開も速まり、身動き取れない主役の代わりにヒロインが動き回る。

しかも、ただ「高みの見物」に終わらず、スリル感が程よくあり、見ていて面白い。
2枚目俳優と世紀の美女のクールな恋物語というサイドストーリーも味な物だ。
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# by masatonet | 2011-09-20 23:58 | ヒトリゴト日記

映画 第三の男

英 1949年 白黒。
ジョゼフ・コットン主演。木訥とした演技がよく似合う。ドギマギしたり、突然乱れたりとジョゼフ・コットンの演技自体が、その不可解さあふれる演技自体がこの第三の男のストーリーの厚み作りに一躍買っている。モンローの映画で演じていたジョゼフ・コットンより、やはり第三の男の主役としての彼の方が明らかに「脂がのったうま味100%」の好演であることは間違いない。

そして悪役ハリー・ライムを熱演したのは、かのオーソン・ウェルズ。学生時代にはイングリッシュ・アドベンチャーのナレーションで聞き慣れたあの名優だ。しかしこの映画に出てくるオーソン・ウェルズは若い。あの極めて渋い声ではない。しかし独特な表情で演じるその悪役ぶりには固唾をのんだ。個人的にオーソン・ウェルズは英語の恩師でもあるので悪役をやって欲しくなかったが、やはり彼はこういう役がピッタリなのだろう。もっともオーソン・ウェルズは映画撮影時にいろいろなトラブルを起こしていたようだ。私生活はともかく、やはり彼は個性派俳優でお気に入りNo.1だ。

「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」
という原作にないオーソン・ウェルズの台詞は賛否両論あるようだが、強力なメッセージであることは否定できないだろう。闇雲にヒーローを狙う憎らしい悪役ではなく、悪の美が前面に溢れている。テーマ曲も有名。アントン・カラスのダイナミックでもあり、可憐でもある演奏が映画の随所で堪能できる。

映画中の演出もすばらしい。陰影を巧みに生かしたミステリアスなアーティスティックは白黒映画であることもあって本作を単なるサスペンスに終わらせることなく、名フィルム・ノワールへと「美術的作品」へと昇華させている。
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# by masatonet | 2011-09-19 10:48 | ヒトリゴト日記

映画 風と共に去りぬ

第12回アカデミー賞作品 1939年 カラー。
DVD2枚組。200分以上の大作。
いつかは見てみようと思っていたがなかなか見るチャンスがなかった。
クラーク・ゲーブルは2枚目俳優。3本のアカデミー賞作品に出演している。
主役はヴィヴィアン・リー。美しい女性の基軸とも言える。
オリヴィア・デ・ハヴィランドも優しい演技。彼女が東京生まれだったことには驚いた。しかも現在も健在。風と共に去りぬに出演するために一騒ぎしたそうだが、映画中では一転、騒ぎを収める役だったのが滑稽だ。
どの俳優達も圧倒的演技力で、最近よくあるような大スペクタクルや爆発シーン無しに観客を引きつける強力な脚本とキャスティングである名映画だ。
黒人差別色が強い。反ニグロ映画ではないとは言え、要所に出てくる白人至上主義的な描写は今となっては全くいただけない。

いくら多くの男に言い寄られても自分の想った一人の男を振り向かせるために必死になる。
つまり想うようにならないこと自体が想い続けるきっかけになっていて、幻想を追い求めているヒロインの姿がなんとも悲哀に満ちている。
自分にとって一番大切なものはすでに自分の周りにあるにも関わらずそれを見ようとはせず、恋の幻惑をさまよい続ける。
最後には、風と共にすべてが去って行く。
しかしそれをただ泣きながら見つめるのではなく、また希望を求めて大地に根を下ろす。
極めてメッセージ性の高い作品である。
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# by masatonet | 2011-09-14 09:51 | ヒトリゴト日記
白黒 仏映画 1951年
ヘップバーンが出ているが主役ではない。
保育所のちょっとしたミスからとんでもない話に展開していく、いかにもフランスらしい映画。
聞くところによると日本では未公開の映画らしい。
「この子は誰の赤ちゃんなの??」を巡るジャズバンドメンバーのドタバタ騒ぎ。
ミュージカルであるが、ストーリー展開はすこし意外性も含んでいる。
ヘップバーンがフランス語と英語を巧みに使いこなしているところは見どころ!
性的描写は皆無だが、話題がどことなくセクシー。
退屈になるならない、いろんな意味でギリギリの映画でもある。
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# by masatonet | 2011-09-13 08:31 | ヒトリゴト日記

映画 ナイアガラ

映画 ナイアガラ 1953年
米。カラー。マリリン・モンロー。
モンローは悪役、悪女で登場。かの有名なモンローウォークが拝める映画です。
ナイアガラの滝にまつわる殺人ミステリーですが、ストーリー自体は単調です。
マリリン・モンローのミステリアスな死を予見したようなストーリーで鑑賞後なんだがスッキリしませんでした。とは言いましてもモンローの演技はしっかりしていて、わざとらしさは見えません。可憐さはなくなり、まさに「セックスシンボル」のモンローを見ることができます。

なんといっても見所はモンローが随所で着ているド派手なドレス。あのドレスを着こなせるのはモンローくらいでしょう。映画の中でジーン・ピーターズに「私があのドレスを着こなすのは13歳くらいから準備し始めないと・・・」と言わせたのには笑いました。しかしこの台詞というジーン・ピーターズが少し男性らしいのにもうけましたが・・(笑)

ヘップバーンでの「あの帽子」(マイ・フェア・レディ)と言えば、モンローだとこの映画で見せたドレスというくらい強烈な印象を与えてくれます。
健全な演技役としては、ミスオハイオに選ばれたというジーン・ピーターズ。一瞬「え!?ジュディーアンドリュース??」と思いましたが違いました。モンローといい、ピーターズといい、この映画の女優達は美女ばかりです。
一方、男優達はそれほど目立つことはありませんでした。第3の男で有名なジョゼフ・コットン。演技は落ち着いていて、見ていて楽。この映画では観客に恐怖を与える役だがそれほど恐怖は味わえませんでした。

モンローも決して幸福な最後ではなかった。ジーン・ピーターズも億万長者と結婚しても幸せにはならなかった。美しい女性達が幸福になるには、美しい故に苦難の道のりがまっているようです。この映画でモンローに降りかかった悲劇のように、美と幸福の両立はかなり難しいのではないのでしょうか。
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# by masatonet | 2011-09-06 23:48 | ヒトリゴト日記
私が日々会っている高校生達。
よく彼ら彼女らの話を聞いているとたった30個程度の言葉しか使っていない。
ホノボの実験ではあるまいし、なぜそれほど言葉に無頓着になってしまったのか。
驚くべきことは女子高生の話し方である。
化粧や髪型や洋服を気にする前に話し方を変えるべきだ。
まさにMade me grossの枢軸がそこに感じ取れる。

ここに2011年、中高生、はたまた大学生達の選んだ21語を記録しておく。

1,がち (がちで?)
2,こいつ
3,いらん(いらんだろー)
4,ないだろ
5,きもい
6,しねや(しね)
7,オレ的(オレ的には)
8,ふつーに
9,やばい(やばくねぇー)
10,てか(つか)
11,は?
12,なんでなん(なんなん)
13,ぶっちゃけ
14,ありえんし(ありえんくねぇ−)
15,いらねぇ
16,めっちゃ
17,みたいなぁ
18,ふつーに
19,まじ(まじで・まじすか)
20,むかつく
21,〜ってる

例えばこのようになる。

つか、は?、まじで、しねや。(対象が生物で無くても使われる。女子高生も使う)

めっちゃ、くそやばくねぇー。(「とても」は死語。「めっちゃ、めっちゃ」と連発する)

がちで、は?、こいつ ふつーに ありえんし。(「こいつ」は無生物にも使う)

ちなみに「がちで、は?、こいつ ふつーに ありえんし。」を訳すとこうなる。
実際全く意味が分かりません。私の経験では想定できないことが起こっていて理解に苦しみます。

考えるに、彼ら「未来の日本人達」の言葉は極めて簡略化されているので、すばやいコミニュケーションにはうってつけだろう。しかし日本には美しい形容詞がいっぱいある。それを忘れて欲しくない。言葉は感情を置き換えるだけの道具では無く、自分の考えを述べるための「思考通路」だ。
問題は、「未来の日本人達」がこのような言葉しか使わなくなることによって彼ら彼女らの「思考」まで単純化してしまうことだ。そうなると諸外国の思う壺だ。

もし、学生でない貴方がこのような言葉を使っていたら、すでに手遅れかもしれない。
一刻も早く離脱を計らないと一家全滅しかねない。年齢を超えて伝染するのだ。

しかし、世の中すべてを20語そこらで表現しようとするこの試みは、一体誰が始めたのだろうか。
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# by masatonet | 2011-09-04 14:27 | ヒトリゴト日記

映画 尼僧物語

オードリー・ヘプバーン(1959年)
キリスト教、修道院内の物語。
ヘップバーン演じる尼僧ルークは医師の父を持ち医学の知識をもつ。
コンゴ奥地で現地の人たちに医療活動で貢献したいと願うが思うようにならない。
試練(人智を越えた出来事)が多く起こり、そのたびにルークの心に葛藤が生じる。
大変な修身の結果、皆に愛され、敬愛される尼僧になって行くのだが最後は修道院を後に去って行くルーク。
女優業をやめ、子育て、ユニセフ親善大使の道を歩み出したヘップバーン自身の人生の縮図をそこに見て取れる。この尼僧物語で演じたルークがヘップバーンの精神生活に多大な影響を与えたことは言うまでも無いだろう。
まさに、生い立ちからその生き様においてオードリー・ヘプバーンこそが出来た名演がこの映画にある。
ローマの休日はヘップバーンの可憐な部分が取り上げられていたが、この尼僧物語ではヘップバーンのアイデンティティを巧みにメタファー化したものを見ることができる。
キリスト教色が極めて濃いので大半の日本人の精神性とそぐいにくい、理解しづらい部分が多いが、精神的活動が迷走している今日、万人に見て欲しい名作であることは疑いの余地が無い。
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# by masatonet | 2011-08-22 12:30 | ヒトリゴト日記
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大長編ドラえもん のび太と日本誕生に出てきたワンシーン
ストーリーは原作で何度も読んでいるがアニメ版をひさしぶりに見てみたときに気になったポイントはただ一点ある。それは、

のび太は一体どんな問題を解いて
どのように間違っているのだろう

ということである。

テストの詳細は次の通りである。

野比のび太 0点

1 次の計算をしなさい
(1)230 x 80 = 2070
(2)673 + 20 = 1346
((3)と(4)は分数問題のため割愛する。詳しくは上のキャプチャーをご覧下さい)

2 4個で200円のアイスクリームがあります。1個のねだんはいくらですか。
 (式) 200÷4 = 80 答( 80円 )

3 1個30円のリンゴを5個と1個25円のみかんを7個買いました。全部でいくらですか。
 (式)30+25+5+7 = 67 答( 67円 )

4 20分間に60cm進むかたつむりは、1分間に何cm進むでしょうか。
 (式)60÷20 = 80 答 ( 80cm )

算数5-1(37)

以上だ。
とんでもない考えちがいをしているのでは無く、基本的な計算ミスや計算量不足による0点であると思われる。ドラえもんとの生活で文章読解力はそこそこついているようで文章問題を計算式にする作業には一定の理解力を見て取れる。
実際、今の子供達を指導すると、この部分、つまり文章から計算式、文章からあらたな文章という作業が極めて困難であることが多いことを考えると、
のび太のあやまりは

2011年型では無く

1980年型
あるいは
それ以前

であるように推察も出来る。
ただし、この計算ミスを減らすには小学校低学年からの算数計算の再学習が必要だろう。

意外に、のび太には国語力があることがこの答案から見て取れる。


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こちらは宇宙漂流記から。
上が幻惑での答案。
下が地球での答案。
ここから分かることは、のび太はやはり100点を取りたいのだ。わざと0点ばかりとっているのではないのである。また、簡単な問題を解きたいという思いもあるようだ。

(追伸)
大長編ドラえもんの日本誕生でギガゾンビを演じたのはあの永井一郎。アニメ版サザエさんでは波平さんの声をも担当されている。
悪さ、憎さたっぷりのギガゾンビの笑い声。永井一郎さんの名優たる堂々とした演技におもわず唸ってしまった。ちなみに永井一郎は京都大学仏文科卒らしい。二度驚いた。
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# by masatonet | 2011-08-21 17:16 | ヒトリゴト日記
ヒックとドラゴン(2010年)
米。原作、How to train your Dragon。
ここ10年来流行のフル3Dアニメーション。
やはり人間の表情の不自然さが気になるUSの3Dアニメだが、その飽きさせないストーリー展開と圧倒的なスピード感には脱帽。ドリームワークスアニメーションスタジオ万歳である。
背景のリアリティ、雲や海の水の揺らぎ等、実写と寸分違わない。CGもここまで来たかと思わせる。
ドワーフ(バイキング)達のヒゲや毛皮の服の動きが「現実」以上にリアル。
アメリカンドリームというか、おなじみハッピーエンドであるが、ディズニー作品のように100%ハッピーエンドで無いところがまたニクい!

最近見た3Dアニメーションではトップレベルの作品で一押し。
WoWのレイダーを5年以上している私から見ると、このアニメ中に多く出てくるドワーフたちのデザインはWoWの影響をかなり受けていると感じた。また実際WoWではDragonにMountすることが中心なのでその影響も大かと。WotlkのT7レベルの話とこのヒックとドラゴンの雰囲気がかなりダブって面白かった。おそらくコアなWoWプレーヤーのウケも狙ったのだろう。


2013年にこのヒックとドラゴンの続編が出るようで、今から楽しみだ。
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# by masatonet | 2011-08-16 23:19 | ヒトリゴト日記
百万長者と結婚する方法(1953年)
カラー。ラブコメディ。
ベティ・グレイブル/マリリン・モンロー/ローレン・バコール
ローレン・バコールがほぼ主役。かのカサブランカのハンフリーボガードの実妻。
マリリン・モンローの眼鏡バージョンが見られる。「眼鏡ファン」にはお勧め。またモンローのド近眼演技も愛らしさたっぷり。ベティ・グレイブルの演技は極めて普通。
クールビューティーのローレン・バコールの演技は見事。
全体的にやや退屈な感じがある。とくに映画冒頭の5分以上のオーケストラ撮影は蛇足というしかない。もっとも面白いのはやはり最後の10分部分。
お金を持っている人は女性を幸せにするとは限らない。
お金を持っていなさそうな人が実は大金持ち。
お金持ちの「お金」に羨望するだけでは本当のお金持ちと絶対出会えないし、出会っていても決して結ばれない。ローレン・バコールがそういう女性をクールに演じている。
婚活云々、くだらないことを言う前に
全ての未婚女性に見て欲しい映画である。




お熱いのがお好き(1959年)
白黒。マリリン・モンロー。コメディー。
女装したトニー・カーティスとジャック・レモンが繰り広げるコメディ。
話のテンポが非常に良く、気軽に見ることができる。
モンローの演技も「バタ臭い」感じは皆無。アメリカのセクシーシンボルであったことも頷ける。
ボディーラインはさすがに素晴らしいが、この映画の撮影当時モンローは妊娠していたことを考えるとちょっとやり過ぎの演技や服装が多かったことは否めない。(まあ、この辺がバタ臭い部分か)
個人的にマリリン・モンローは好みではない(彼女の乱れまくりの私生活を含む)が、この「お熱いのがお好き」で歌ったりディープキスをしまくるモンローを見ると「極めて可憐」に見える。さすがの演技力はアメリカきっての一大女優だ。
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# by masatonet | 2011-08-16 09:29 | ヒトリゴト日記
アニメ フランダースの犬(1975年)
全52話。日本アニメーション。原作者ウィーダ。
ヒーローはネロという貧しい少年。
ヒロインはアロアという裕福な少女。
人々の偏見が起こした悲劇。しかもその偏見にそこまで「人の罪」を負わせる必要があるのかと痛烈に感じさせるほど、ネロは重い十字架を負い、死へ一歩一歩近づいていった。まさに「きりひと賛歌」の小山内桐人(おさないきりひと)こと幼いキリストがダブってくる。いやネロの心はそれ以上に痛烈な死への道、それに追いやる人々の「悪心」のカオスで覆い尽くされてしまう。
このフランダースの犬で風車小屋への放火の疑いをかけられ村八分になってしまったネロの姿を見て、私の脳裏にある強烈な声が蘇った。
それはマタイ受難曲(BWV244)の50曲目"Aus Liebe Will Mein Heiland Sterben"で繰り広げられる合唱隊の叫びだ。

十字架につけろ!
十字架につけろ!
十字架につけろ!
十字架につけろ!

人々は「なにをしているかわからない」ままそう叫び続けた。

まさに、ネロはハンス、コゼツによって十字架につけられたのだ。
美しい心を見ることができない、見ようとしない大人達にとって「全財産」まで投げ出さないと十字架につけられた人の真心を発見できなかった。迷える子羊達である。
しかし、人間とは実に可笑しな生き物だ。人の幸せを、自分の幸せを祈りながら、実際は人の不幸を心の奥底で願っている。他人の不幸なんて願ったら自分も不幸になるなんて当然のことを知っていながら。ネロが幸せになることを祈り、最後凍死してしまう結末を嫌うにもかかわらず、その死と自分の今の境遇を比較し「まだ、私の方がましだ」と胸をなで下ろす。悲劇を自分の踏み台にして悠々と生きている。私たちはなんと下劣な生き物だろう。

この悲劇は世の中に多くある悲劇を見ていき続けるための準備教育に他ならない。
ネロが悲惨な最期を遂げる。それが最重要点なのだ。この最重要点は変更不可能なのだ。死がもたらす、清らかな人の死がもたらす「悲劇」から、卑劣な私たちは自らがすべて「罪人(つみびと)」であることを自覚すべきなのだ。


しかし、、、
それは、
その展開は、
聖書で十分ではないのだろうか。


・・・・・
・・・・
・・・
・・

家賃を払える当てもなく身も心も引き裂かれたネロはハンスと約束したとおり家を出て行くことにした。家賃の足しにと家財道具を一切を机の上に出し、書き置きをして家から吹雪荒れ狂う外へ出た。しばらく歩いた後、突然強風が吹きネロを空高く押し上げそのまま大きな垣根に叩きつけてしまう。それによってネロは気絶してしまう。気がつくと家の中。横にはミシェルがやさしく付き添っていた。まもなく、ハンスやコゼツが他の人たちと共に部屋の中になだれ込んで謝罪を始める。皆がともにやさしい心でつながったことに喜ぶネロとアロアだった。
その後、ネロは長年おじいさんと暮らした思いで溢れる家で一人暮らしを続けようとするが、コゼツがネロを一人のままにはさせなかった。アロアとエリーナが毎日訪れネロの家事を手伝ってくれた。ネロの後見人になったコゼツはネロの金銭面をすべて負担し、実の子アロアに匹敵するほどネロを寵愛する。その後まもなくパトラッシュは亡くなり村を挙げての葬式が行われた。
毎日ネロはコゼツが用意した専用馬車で美術学校へ通う。改心したハンスは心を入れ替えたと思いきや、ネロに変わって新しく虐めるターゲットを得、皆に隠れて陰湿ないじめを続ける。ハンスに虐められた人はハンスを激しく恨み、それがもとでハンスは事故で命を落とす。ハンスの後を息子のアンドレが継ぐがへまばかりしている。そのへまに愛想尽かせたコゼツはネロに村の取りしき一切を任せる。しかしネロは絵の勉強が忙しくなってきて、ブラッケン村の内情に手が回りにくくなる。忙しさからネロは病に伏せる。その様子を見てかつてのアロアの主治医だったバートランドがブラッケン村の取りしきを手伝ってくれる。
画家のヘンドリックの下でみるみる才能を発揮するネロ。ネロの研究室には遠く外国から貴族達が多く訪れるようになる。その後まもなく、以前ネロが会ったイギリスの公爵夫人の取り計らいもあり、美術館でネロの作品展が年に数回行われ始める。そして本格的な勉強のためにネロはアロアと共に国費でフランスへ留学する。1年の学びの末、ベルギーに帰国した二人はアントワープの大聖堂で結婚式を挙げる。挙式には国王陛下も参列する。引出物はノエルおじいさんが作った「ブラッケン村の風車のオモチャ」その出来にたいそう喜んだ国王陛下はノエルおじいさんを皇室専属の職人として採用しようとした。その採用式当日、ノエルおじいさんはいつものとおり笛を吹きながらどこかにいってしまった。その後まもなく、国王陛下はネロをルーベンス絵画の修復責任者として召し抱える。

その後、時は20年経ち、世代はネロの子供へ。
ブラッケン村の中心にはパトラッシュが引く荷車の横につきそうジェハンおじいさんの銅像がそびえ立つ。その銅像はジョルジュにコゼツがお願いしたものだった。またジェハンおじいさんの簡易な墓は大きな石碑へ変わりひとつの観光地になる。ネロはアントワープ美術学校の校長。そこは今や世界中から美術を志す若者が集まる名門校になっていた。若く美しいアロアは街の養老院、孤児院の院長となり貧しい人たち、子供達の灯火となって働いていた。そんなネロとアロアとの間には一人男の子がいた。その子は詩の才能があったがアロアに似て、きかんぼうだった。一方鍛冶屋の親方であるジョルジュはマリアという妻との間に女の子がいた。ネロの子とジョルジュの子は大の仲良しで親たちの心配をよそに色々な冒険を始める。
ある日、冒険の途中間違ってポールに大けがをさせてしまい、そのことでネロがローマ大聖堂に捧げるために描いていた「最後の晩餐」を期日までに仕上げられなくなり・・・。


と、このようにストーリーが進むと極めて気持ちが良い。


なんとも、美しくハッピーエンドに繋げないと心苦しい。想像だけでもいいからネロに、彼の美しい生き様に報いたい。
最後非業の死を遂げたにしてもマルチンルーサーキング牧師のごとく
力強く、
正義を貫く
そうであってほしい。
このままでいくとネロの悲劇は美しく生きることへの否定に繋がるようでとても辛いのだ。

作者はそこまでして生より死を持ってこそ救いであると叫びたいのか。
マンガの神、手塚治虫に言わして、
「作者ウィーダはドクターキリコ」
であろう。
いや、そうにちがいない。
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# by masatonet | 2011-08-11 23:13 | ヒトリゴト日記

最近見たアニメの感想

アルプスの少女ハイジ(1974年)
全52話。全て鑑賞後、シュピリの原作「ハイジ上下」を読書後、
もう一度アニメ版52話を鑑賞中。
すべて手書きの背景、モーション。
パソコン処理とはほど遠いアニメーションに改めて感動。
声優達は、日本を代表する名優ばかり。
原作は作者が牧師を祖父に持つだけあって相当キリスト教色強く、
それがストーリー全体に重要な要素であるはずだがアニメ版は全く宗教色がない。
ハイジは、ただ明るいアルプスの女の子として描かれている。
スイス本国ではこのアニメ版は全く評価されていないようだが、
原作を読むとなぜ評価されていないかが理解できる。
シュピリが一番伝えたかったことが一切アニメ版からは伝わってこない。
しかし、2011年現在の全てのアニメーションが忘れてしまった「絵」が
アニメ版ハイジには溢れている。
使われている音楽も本国収録のものや歌詞のしっかりしたものが多く、
その点から推察しても、
自然の中で生きることへの大切さ
本当の教育とは一体何か
大人の子供に対するあり方とは
真の豊かさとは
子供の持つ可能性、それを信じる心
等々、充分伝えるべく描かれた内容には敬服できる。



ニルスのふしぎな旅(1980年)
セルマ・ラーゲルレーヴ(ノーベル賞作家)が書いた傑作。
全4巻の原作も読んでみた。さすが大江健三郎氏が少年時代に感銘を受けただけあり、原作には空から見た情景描写が実に多彩。読者に多種多様なイマジネーションを喚起させる名文が続く。メタファーが多い文章を読み慣れていないとすこし読みづらいかもしれない。
アニメ版は全52話。製作が学研だったのが印象的。
主題歌。実際聞いてみると「音痴?!」と思えるほど音が外れている(笑)。センスは自体は良いが歌唱レベルがご愛敬(笑)。
ニルスの声優の声が気になる。キンキン感が強い。
キャロット役の声優もいまいち。声にハリがない。
しかしアッカ隊長、ダルフィン、モルテン、そしてスイリーの音痴の歌、グスタとラッセの漫才等々、ニルス周辺の声優、アクションは実に上手く、安心して楽しめる。
中でも声優の質が最高に良かったのは悪役の「レックス」。悪役だが全く憎めない。中盤からレックス登場の「歌」まで流れる。悪役だが間違いなく「レックス・ファン」がいるに違いない(笑)。
原作では「レックス」ではなく、「ずる」という名であるが、このキツネは終始ニルスと雁たちの命を狙う。毎回失敗するが声優が圧倒的に上手いので物語を極めて楽しく鑑賞することが出来る。個人的に悪役にここまで笑えたのは初。
ストーリーは「こびとニルスが人間に戻るまでの旅」が中心。
妖精にイタズラしたわんぱくニルスが小人(こびと)にされてしまい、鳥の雁(がん)の群れに交じってガチョウのモルテンの背中に乗って旅をする。その長旅の中でニルスはやさしい心を持ち始める。自分が元に戻るためには旅仲間のモルテンの命が必要であることを知ったニルスは人間に戻ることを諦めるが・・・。
人間嫌いの動物たちと人間の「架け橋」役を務めるニルス。
最初の数話はニルスが動物たちにやり込められすこしイライラするが物語が進んでいくとニルスが良い方向へドンドン成長していき次々に襲いかかる事件を次々解決するので楽しさが増す。
物語は旅先で毎回新しい事件に遭遇し、ニルスが巻き込まれたり、解決したりする。
原則毎回ハッピーエンド、そして最終話、アッカ隊長とニルスが話す、その話がなんともしみじみ。
子供と何度も鑑賞し直すべき名作である。
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# by masatonet | 2011-08-11 21:12 | ヒトリゴト日記

最近見た映画のミニ感想

ローマの休日(1953年)
オードリー・ヘプバーン。
白黒。ストーリーはシンプル。ヘップバーンの名声を世界的にした名作。
編集が良いのか、見ていてあまり退屈しない。
もし本当にこの映画で起きたようなことが起こったら、大変だろうなと感じた(笑)。
個人的にローマには幾度か行っているので、見覚えのある場所が色々出てきて楽しめた。
グレゴリー・ペックはかなりハンサム(笑)。ヘップバーンの相手役として最高だった。
ペックとエディ・アルバートとのコントはかなり息が合っており、ややもすると退屈になりがちな「王女様のお忍び」といった内容にコミカルな雰囲気を何気なく入れることに成功している。



マイ・フェア・レディ(1964年)
オードリー・ヘプバーン。
ミュージカル。歌部分やや長い。原作は、バーナード・ショー。男尊女卑色強烈。
何と言っても圧巻はヘップバーンの「帽子」。まさに絶品。
ヘップバーンの美貌と完全にマッチしたあの「帽子」は必見。



初恋(1651年)
オードリー・ヘプバーン、他。
ヘップバーンのバレーを見ることができる。彼女10代か?! 極めて若い!
バレンティナ・コルテッサがほぼ主役だが、日本で言うとカットにもよるが越路吹雪か?(笑)
かなり癖のある演技。そこまで面白くもない、ありがちなミステリーサスペンス。



シャーレード(1963年)
オードリー・ヘプバーン。演技、艶も充実。名演。
ケーリー・グラント、ヘップバーンより20以上年上だが、渋さ、落ち着きが溢れた好演。
ストーリー展開もよく、最後の最後までどんでん返しが続くあたりは「スティング」みたい。
話のおちもよく、小気味よさが満ちあふれている名作。



ティファニーで朝食を(1961年)
オードリー・ヘプバーン。娼婦役だが、全く娼婦に見えない。
ストーリー展開はさほど面白くないが、
実際ティファニーは宝石店だが、そこで食事をするというメタファーは面白い。
ジョージ・ペパードの演技も普通。もちろん良い演技だが。ヘップバーンの演技は良い。
音楽良し。
ヘップバーンが歌うヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」は名曲中の名曲。
ややかすれた感じの声で窓枠に座りギターを抱えて歌うヘップバーンは美の象徴か。



カサブランカ(1942年)
白黒。名画。音楽が良い。ストーリー、ドイツ・ナチ批判かなり強烈(笑)。
ハンフリー・ボガート、かなり渋い。名演。
イングリッド・バーグマン、綺麗だが、いつもフィルター越しに映される撮影方法には疑問。
歴代屈指の美しい「不倫」。



ディズニー 塔の上のラプニツェル(2010年)
よくありがちなストーリー展開。ミュージカルあり。
100%ハッピーエンドのディズニーアニメは始めから結末がみえみえ。
トイ・ストーリーみたいな立体アニメ。顔の表情が相変わらず不自然。
背景、全体のグラフィック、カメラワークはかなり向上してる。
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# by masatonet | 2011-08-04 09:52 | ヒトリゴト日記
このブログ設立はそもそも、私がNintendoDSやSONY PSPについて独断を述べようと思ったのがきっかけだった。あっという間に7年の歳月が過ぎた。
その後、WoWというMMO、通称洋ネトゲーに流れていった私だったが、DSLiteやDSLL、PSPgoは買っていた。買ってはいたが、実際にプレイしていたのは自分の周辺にいる子供達。
実際ここ5年以上、DSやPSPに1時間以上触ったことは数回もない。
携帯ゲーム機のマイブームは完全に過ぎ去ってしまった。

そこへ来て、今回のNintendo3DSの1万円値下げニュースだ。
実際、値下げ前に3DSを買った人にはダウンロードゲーム10本を無料で提供するようだが、いずれにしても1万円(88ドル)も値下げする意図は一体何であろうか。

3DS本体の普及

だそうだが、実際は東日本大震災の影響が大きいだろうが、私は3DS自体に魅力を感じない人が多いのではないかと感じる。
30代や40代のファミコン第1世代はTVゲーム創生期に子供だった世代だ。私を含めてTVゲーム=任天堂の系図は崩れ去っていない。しかし、

ゲームそのものの倦怠期

が来ていることは否めないだろう。理由は明白だ。
コンセプトやアイデアが全て出尽くされてしまい、過去のゲームの焼き直しばかり。
リメイクばかりではないか。

「お、懐かしいな!」
と思わせるタイトルばかり。でも購買意欲には全く繋がらない。

ちょっとでも本体の売上げが悪くなれば、すぐに

マリオ
ゼルダ
ポケモン

を発売し、ばん回を図る。
そのやり方ももう見え見えになってしまった。

SONY陣営はPSVitaというPS3に匹敵する性能を持つ次世代PSPを発売するようだが、
はたして・・・。PSPgoを発売当時に買った自分の愚かさを呪った日が昨日のようだ。

コアなゲーマー達は、どんどん携帯ゲーム機から離れていくだろう。
背広を着てDSでゲームをしている20代サラリーマンを公共の場でよく見かけるが、その「青さ」は見るに堪えない。


今後、人々の価値観がますます多様化する中で、
ゲームプレーヤー達の「ゲームに対する価値観」も多様化するに違いない。
Top to Down(トップトゥーダウン)のみでは負け組になるだろう。
日本の会社はNTTにしても任天堂にしてもライセンスにこだわりすぎている。

彼らの負け組への転落。
すでにカウントダウンが始まった。

携帯ゲーム機のオープンソース化を一分でも早く実施すべき。
さもなくば、ユーザーに捨てられる。

役員報酬のカットや無配を考える前に


なぜ、コアゲーマーが携帯ゲーム機から離れていったのかを
真摯に考え直して欲しい。


社員だけのアイデアでものを売る時代は終わりつつある。

売り子の文句だけで商品を買う時代がAMAZONで終焉を迎えたように。


どうしてそれに気づかないのか。


私は不思議でならない。
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# by masatonet | 2011-07-31 20:17 | ヒトリゴト日記
円高のお陰!?でiPhoneアプリも85円になりました。
85円は確かに安いと思いますが、円高になったのは最近のことではありません。
なんでいままで115円だったのかが不思議です。
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# by masatonet | 2011-07-17 12:05 | Macフリーカー
原発問題で著名人の多くが叩かれている。
推進派というか、そもそもTVに出ている人はスポンサーのドンである電力会社の前には非力である。

ファンには辛い話だが世の中「お金」が全てを歪ましている。

有名人も知らず知らずのうちに自分の名前を「買われて」、無断に使われている。
いや、中にはそれを知っていてしっかり儲けている芸能人も多いだろう。

被害者はファン達だ。

いつの間にか自分も悪人達へ荷担している。

同罪になる。


影でしっかり儲けているのは巨大組織、そして「国家」。


ロバに乗って風車小屋に立ち向かうドンキーホーテの気持ち
痛いほどよく分かる今日この頃である。
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# by masatonet | 2011-06-12 17:55 | ヒトリゴト日記
スペインで行われた村上春樹のカタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文を載せます。

広島に生きる私たちが真摯に受け止めるべき内容でした。

******引用ここから******

「非現実的な夢想家として」
 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
 どうしてか?
 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
”  日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
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# by masatonet | 2011-06-12 17:20 | 掲示板

Back to the future E1

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Appストアーをチェックしていたら発見。
1話は無料とのことで早速遊んでみました。
初代iPadのせいかどうか分かりませんがラグがひどい。
ミニムービーメインのアドベンチャーゲームですがラグラグです。

ストーリーは映画のバックトゥーザフューチャー1の番外編というところでしょうか。

ファンには美味しいサイドストーリーで楽しめます。
ドクとマーティの会話は映画のように早いです。

2話から4話まであるようですが各800円也。


アプリもiPad2に合わせてどんどん処理を重くしているようです。
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# by masatonet | 2011-06-10 18:27 | Macフリーカー
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(どらさじ+ より転載しました)


20年以上前に見たアニメで「妙に気になり続けていた」作品があった。
覚えていたのは次の5点。

1.首が長いジラフと呼ばれる乗組員が宇宙船に乗っているということ
2.変な球根を食べて頭がおかしくなること
3.カリンというかわいい女の子が出てくること
4.レーザーガンをオモチャにする村の子供からそれを奪い取り身を守ること
5.NECがスポンサーをやっていたこと

記憶がバラバラでいい加減だろう。しかし20年以上前に見たアニメにしては結構鮮明に覚えているので、故に気になり続けていたと言うわけだ。

早速ネットで調べると「宇宙船サジタリウス」という名前のアニメであった。

う〜ん、そんな名前だったかな。。。でも検索すると確かに首が長いジラフというキャラクターが登場している。早速全作品を見てみることにした。

見終わると、私の記憶が結構明確だったと分かった。
1.ジラフという学者肌の乗組員は始終登場している
2.第52話に出てくる「宇宙カコ」という名の麻薬であった
3.第53-54話に出てくる超音速で走ることが出来る114歳の女の子
4.第60話にそういうシーンがあった。
5.当時の番組スポンサーはNECだった
(以上ウィキペディアより)

なんだか長年引っかかっていたものがスルスルと取れたような爽快感があった。



全77回、各回28分程度のアニメーションだ。制作は日本アニメーション。
日本アニメーションの作品で今でも繰り返し見ているものといえば「未来少年コナン」だ。日本からイタリアへ向かう飛行機の中で第1話から第26話(最終話)まで一睡もせず見て同伴者を驚愕させたことは記憶に新しい。(流石にイタリアに着いたときは頭が少々ボーッとしていたが(笑))


トッピーというカバが主人公。関西弁をしゃべるラナというカエルがその仲間。
この辺りは「全く」覚えていなかった。
当然彼らが乗る宇宙船の名前が「サジタリウス」なんていうことも覚えていなかった。

回が進むとジラフが乗組員になり、婚約者のアン教授と結婚する。トッピーと妻ピートにリブとフェローという子が生まれる等々サイドストーリーもゆっくり進むがこのアニメ全体は極々平凡な3人、3世代(20代、30代、40代)の男たちを描いた苦悩物語だったのだ。子供向けにしてはディープすぎる内容だ。どうりでNECがスポンサー訳だ(笑)。

メッセージ性はかなり高い。各回30分弱なので、3回で1話という形を取っている。この宇宙船サジタリウスで毎回起こることをまとめると次の通りである。

テ・クジュペリの『星の王子様』、憲治の『銀河鉄道の夜』、松本零士の『銀河鉄道999』の設定に似ている。つまり

1.毎回、地球周辺にある様々な惑星に到着(というより漂着に近い)する。

2.それぞれの惑星で起こる時事問題・政治問題、時には恋愛問題に巻き込まれる。

3.毎回死にそうになる。

4.惑星の問題を解決し、教訓を得る。そして地球へ帰る。

全ストーリーの根底流れているのは日本のアニメで最も多く取り上げられている「友」「友情」の重要性だ。英雄的ドラマではなく、あくまで「協調」の重要性、それこそがもっとも大切だと毎回説く。全く「出る杭は打たれる」日本の教育システムは子供アニメにはっきり見て取れる。しかしドラえもん等のアニメによくある「安直に友達を助けよう! 喧嘩はいけない!」ムードとは違い、この「宇宙船サジタリウス」では「大人の男女間、夫婦間の複雑な問題」も描いている。カバのトッピー、カエルのラナ、キリンのジラフ。3人はいつも妻や子供、そして家庭、金銭問題に思い悩む。毎回様々な惑星で冒険するわけだが、危機に瀕すると3人とも「家庭問題」を回顧する場面が必ずある。やはり子供用アニメにしては重すぎる、と言うより子供には理解できないだろう。
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# by masatonet | 2011-05-12 09:42 | ヒトリゴト日記

Operation TOMODACHI

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100カ国もの国から救援依頼が来て、膨大な救援物資が届いた。賛否両論あると思うが
今回の震災で日本を「当然」のように、かつ「桁外れ」に救助したのはやはり米軍だろう。
あの北朝鮮が1千万円の義援金を日本に送ったことも驚いたが、米軍の多大な救援は世界中に
「日米関係の結束力は最強である」と知らしめたに違いない。

もちろん、在日する米国人が多いからであるが、Operation TOMODACHIには全く驚いた。
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「友」という日の丸マークワッペンを付け、万単位の米軍がまるで自衛隊のように現地入りする姿は65年前敗戦し荒廃した日本で誰が想像できたであろうか。

オバマ大統領の鶴の一声で、まるで「有事」であるが如く、万という米軍が救援したようだ。また、小島のような原子力空母も動く。まさに一心同体。米軍の行動が早すぎで日本政府が対応しきれない事態すら起きた。

2発の原爆投下。そして戦後、安保問題でゴタゴタした。
小学時代「原爆教育」という名の「平和教育」を受けた世代として、このOperation TOMODACHIは21世紀の日米のあり方を深く考えさせる「作戦」であることは間違いなかった。

原爆を投下したパイロット達は米国では英雄である。

しかしそれから65年後、同じ国民が、そして大統領が、Operation TOMODACHIという作戦でかつて「放射能実験した日本」を助ける。

過去のことを水に流すことは大切であるが、なんとも複雑なことであると言えなくもない。
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# by masatonet | 2011-05-11 18:40 | ヒトリゴト日記
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この風刺マンガ、国際英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンで載ったもの。
こんな記事の記載を許した編集者は即刻首である。
この時期に誤解を招くような内容は却下すべきだ。
被災地の人たちのことを全く無視した極悪非道とも言える行為だ。

売れる記事のためにはなんでもする。
ネタすら作る。
こんなことを平気でする商業化されたマスコミはもはや廃れすべきである。
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# by masatonet | 2011-05-10 10:22 | ヒトリゴト日記

次のシンデレラは誰だ

ロイヤルウエディングを見てつい感じたこと。

一市民と結婚した王子様物語は数多い。

大体、あの手のハッピーストーリーは結婚式でいつも話が終わっている。
(実際は残酷な結末であることが真実なのだが、大半の絵本や幼児書籍ではカットされている)
結婚式は目的ではなく、スタート地点であるのに、「結婚式が終点」という常識に欠いた内容を子供達へ擦り込む。まるで「大学入試合格が終点」という荒廃した日本の教育システムと変わりない。
この現実極めて腹立たしい。非常に遺憾である。

さておき、

今回は、かの「シンデレラ物語」とその後について考えてみることにしたい。
王子様と結婚したシンデレラ。その後、どうなったか考えてみると色々興味深い。

王子様は代々王家に生まれ育った。王族環境の中で市井とは違う価値観を持ちそこでシンデレラと出会う。朝から晩まで、着替えから入浴まで側近や従者に囲まれた生活の中で育った王子。それが王子の「普通」なのである。どこかに出かけるにしても良かれ悪しかれ放っておいてもらえない。

シンデレラは貧しい家に生まれ育った。3姉妹の末でいつも貧乏くじを引いていた。苦労の数は人一倍多い。当然、貧しい環境で暮らして行くための知恵は多く持っていた。誰からも注目されない。いつも独りぼっち。家族にすら蔑ろにされている。それがシンデレラの「普通」なのだ。どこに行こうが誰も気づかない、誰も知ろうとしない。
そうして王子と会う。


王家に嫁いだシンデレラ。まさに多く女性が望む「白馬に乗った王子が迎えに来た」わけである。


いきなり始まった王宮での生活。王族達との社交。気高い気質を持つ人々。
知ったかぶりをするほど下品な性格は持っていない。かりに知ったかぶりをしようにも、貧しい生まれのシンデレラにとって生まれて初めてのことばかり。

たちまち、王子側近たちとの不調和に悩み始める。それもそのはず。生活環境に適応しようにも違いが大きすぎてどうにもならない。王子に相談しようにもどう伝えればよいのか分からない。シンデレラは全く「孤立」してしまい、日々塞ぎ込むようになる。
その異変に気づいた王子。ゆっくり2人で話をしたい。しかし不幸にも王子はシンデレラの心境など理解できるわけがない。順境で育ったものは逆境で育ったものの理解など出来ないことは何千年も前から宗教が教えている。その逆もまたしかりである。王子も国事でなにかと多忙。ゆっくり話も出来ない。その間にシンデレラはどんどん沈んで行く。


ここまで「シンデレラ物語」を考えてきて、ふと日本の皇太子の言葉を思い出した。

「雅子は私が守ります」

守る?! 
戦争でもするの? 
誰から守るの?


人は夢の世界だけで「シンデレラの幸せ」を想像できる。
そしてそれにあこがれ、自分にも起こらないものかと日々想像する。
実際、それが起こった人を見てうらやむ。嫉妬する。まるでクジが大当たりした人を見るように。
その白羽の矢が立った人が不幸になるよう祈り始める人すらある。人間とは恐ろしい存在だ。いや、「死すべき存在」はそういう性(さが)をもってこそ「死すべき存在」なのだろう。

独身時、多くのファンをもつ芸能人が結婚する。するとそのファン達は「幸せになって!」なんて応援しつつ、その芸能人が離婚することを切に願うようになる。そう、その芸能人の夫、妻たるべき人間は自分に決まっている。そう真剣に思う「気ちがいじみた恋愛感情」こそファンの本心だ。
気味が悪いほど本音と建て前を極めて上手に使い分ける。みな社会の中で生きているから本音を言えない。


かつてダイアナ妃が事故にあったとき、彼女は集まってきた人たちに向かって何と言っていたか。

「私を放っておいて! 私に構わないで!」

この言葉、なぜかここで私が言いたいこと全てを物語っているように思われてならない。
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# by masatonet | 2011-05-10 09:51 | ヒトリゴト日記
原子と人間


人間はまだこの世に生まれていなかった
アミーバもまだ見えなかった
原子はしかし既にそこにあった
水素原子もあった
ウラン原子もあった
原子はいつできたのか
どこでどうしてできたのか
誰も知らない
兎に角そこには原子があった

原子は絶えず動き回っていた
長い長い時間が経過していった
水素原子と酸素原子がぶつかって水ができた
岩ができた
土ができた
原子が沢山集まって複雑な分子ができた
いつのまにかアミーバが動きだした
しまいには人間さえも生れてきた
原子はその間も絶えず活動していた
水の中でも土の中でも
アミーバの中でも
そして人間の身体の中でも
人間はしかしまだ原子を知らなかった
人間の目には見えなかったからである

また長い時間が経過した
人間はゆっくりゆっくりと未開時代から脱却しつつあった
はっきりとした「思想」を持つ人々が現れてきた
ある少数の天才の頭の中に「原子」の姿が浮んだ
人々が原子について想像を逞しくした時代があった
原子の姿が見失われようとする時代もあった
人々が錬金術にうき身をやつす時代もあった
そうこうする中にまた二千年に近い歳月が流れた
「科学者」と呼ばれる人達が次々と登場してきた
原子の姿が急にはっきりしてきた
それがどんなに小さなものであるか
それがどんなに早く動き回っているか
どれだけ違った顔の原子があるか
科学者の答は段々細かくなってきた
彼らは次第に自信を増していった
彼らは断言した
「錬金術は痴人の夢だ
原子は永遠にその姿を変えないものだ
そしてそれは分割できないものだ」

かくて十九世紀も終ろうとしていた
この時科学者は誤りに気付いた
ウラン原子が徐々に壊れつつあることを知ったのだ
人間のいなかった昔から少しづつ壊れつづけていたのだ
壊れたウランからラヂウムができたのだ
崩壊の最後の残骸が鉛となって堆積しているのだ
原子はさらに分割できることを知ったのだ
電子と原子核に再分割できるのだ

やがて二十世紀が訪ずれた
科学者は何度も驚かねばならなかった
何度も反省せねばならなかった
原子の本当の姿は人間の心に描かれていたのとはすっかり違っていた
科学者の努力はしかし無駄ではなかった
「原子とは何か」という問に今度こそ間違いのない答ができるようになった
「原子核は更に分割できるか
それが人間の力でできるか」
これが残された問題であった

この最後の問に対する答は何であったか
「しかり」と科学者が答える時がきた
実験室の片隅で原子核が破壊されただけではなかった
遂に原子爆弾が炸裂したのだ
遂に原子と人間とが直面することになったのだ
巨大な原子力が人間の手に入ったのだ
原子炉の中では新しい原子が絶えず作り出されていた
川の水で始終冷していなければならない程多量の熱が発生していた
人間が近よれば直ぐ死んでしまうほど多量の放射線が発生していた
石炭の代りにウランを燃料とする発電所
もう直にそれができるであろう
錬金術は夢ではなかった
人工ラヂウムは天然ラヂウムを遙かに追越してしまった
原子時代が到来した
人々は輝しい未来を望んだ
人間は遂に原子を征服したのか
いやいやまだ安心はできない
人間が「火」を見つけだしたのは遠い遠い昔である
人間は火をあらゆる方向に駆使してきた
しかし火の危険性は今日でもまだ残っている
火の用心は大切だ
放火犯人が一人もないとはいえない
原子の力はもっと大きい
原子はもっと危険なものだ
原子を征服できたと安心してはならない
人間同志の和解が大切だ
人間自身の向上が必要だ

世界は原子と人間からなる
人間は原子を知った
そこから大きな希望が湧いてきた
そこにはしかし大きな危険もひかえていた
私どもは希望を持とう
そして皆で力をあわせて
危険を避けながら
どこまでも進んでゆこう
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# by masatonet | 2011-04-12 14:04 | 掲示板

M9.0の地震なんて・・。

マグニチュード9.0なんて今まで一度も聞いたことがなかった。
東北関東大震災。

被害に遭われた方の今後の安全と
お亡くなりになった方のご冥福を

心からお祈り致します。

同時に
今平生通り夕食が出来ることに深く感謝しつつ。

そして、今この瞬間に、極めて贅沢なことに
音楽を聴くことが出来ること。

今日のマッキンとLPレコードの音は
今までになく悲しく、辛くそして重い。


フォーレ・レクイレムのLPを聴きつつ
深い深い追悼の念と一家が今無事でいられる事への感謝の念が入り混じる。
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# by masatonet | 2011-03-13 19:13 | ヒトリゴト日記
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# by masatonet | 2011-01-01 13:28 | 掲示板